本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 「森の生活—ウォールデン—」むすび

  わたしは森にはいったのと同じぐらいもっともな理由があってそこを去った。どうも、わたしには生きるべき幾つかの別の生活があって、そこの生活にはこれ以上時間をさくことができないような気がしたからであろう。われわれが一つの特殊な筋道にどんなに容易に、そして知らず知らずのうちにはまりこみ、自らのために踏みならされた道をつくるかはおどろくほどである。わたしがそこに住んで一週間とはたたないうちにわたしの足は戸口から池のへりまで小道をつくった。そしてわたしがそれを踏んであるいた頃から五、六年にもなるがまだそれははっきり見わけられる。じっさい、他人もその道におちこみ、それもあって、今までその道がつづいたのではないかともわたしは恐れるのである。土地の表面はやわらかくて人の足によって印しがつけられる。心が旅する路もまた同様である。しからば、世界の公道はいかに踏みへらされ埃っぽくなっていることだろう——伝統と妥協との轍あとはいかにも深くなっているにちがいない!わたしは船室におさまって航行することを好まず、人生のマストの前、甲板の上にあることを欲した——そこでは山々のあいだの月光を最もよく見ることができたから。わたしは現在、下に降りていくことをのぞまない。

  わたしはわたしの実験によって少なくともこういうことをまなんだ——もし人が自分の夢の方向に自信をもって進み、そして自分が想像した生活を生きようとつとめるならば、彼は平生には予想できなかったほどの成功に出あうであろう。彼は何物かを置去りにし、眼に見えない境界線を越えるであろう。新しい、普遍的な、より自由な法則が、彼の周囲と彼の内に確立されはじめるであろう。あるいは古い法則が拡大され、より自由な意味において彼の有利に解釈され、彼は存在のより高い秩序の認可をもって生きるであろう。彼が生活を単純化するにつれて、宇宙の法則はより少なく複雑に見え、孤独は孤独ではなく、貧困は貧困ではなく、弱さは弱さでなくなるであろう。

 

神吉三郎 訳    

名本光男 「ぐうたら学入門」第1章

  就学前の子どもたちにとって、一番大事なのは「いま」。いま楽しく遊べるか、いまどれだけ気持ちよく寝られるか、いまどれだけおいしく食べられるか。彼らにとってそれが最大の関心事なのだ。だから、「明日」でさえ「いま」ではないという点で、「来週」「来月」「来年」同様、なんの意味もない言葉なのである。
  そういう子どもたちに対して、大人たちはいつも後々の時間のために、「早く、早く」「急いで」「時間がない」とせかして、彼らの大事な「いま」を台無しにしてしまう。大人にとって、「いま」は時計の秒針が一目盛りでも進めば過ぎてしまう些細な時間なのだ。 

「いま」を精一杯生きていた子どもたちも、学校に通うようになると、「時計」の針がどこにあるかで一喜一憂するようになる。

 

  一つだけの方向、一つだけのスピード、一つだけの時間しかない社会——それが現代なのだ。しかし、私たちはみな、それぞれ姿形が違うように、それぞれが違う自分だけの方向、自分だけのスピード、自分だけの時間を持って生まれてきている。だから、「一つだけ」に適応できない人がいるのは当然というものだろう。

名本光男 「ぐうたら学入門」第2章

  人類学の研究では、人間の生活パターンを「タイム・ミニマイザー」と「エナジー・マキシマイザー」という二つの類型に分けることができるという説が提唱されている。
  タイム・ミニマイザーとは、食糧を手に入れるのにかける時間を最小限にして、残りの時間をほかの活動にあてようとする生活パターンのことをいう。対して、エナジー・マキシマイザーとは、ほかの活動を犠牲にしても、できるだけ多くの食糧やエネルギーを手に入れようとする生活パターンである。
  つまり、エナジー・マキシマイザーとは、物質的な豊かさを徹底的に追求するために骨身を削って「勤勉」に働き続ける生活パターンのことであり、先進国に生きる私たちのことをいっているのは明らかであろう。一方のタイム・ミニマイザーとは、働く時間をできるだけ少なくして楽しく暮らす、いわゆる「ぐうたら」な生活パターンのことだ。

太宰治 「人間失格」第一の手記

  めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

 

  自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ端みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。

スコット・フィッツジェラルド 「グレート・ギャツビー」第3章

  彼はとりなおすようににっこり微笑んだ。いや、それはとりなおすなどという生やさしい代物ではなかった。まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類い稀な微笑みだった。そんな微笑みには一生のあいだに、せいぜい四度か五度くらいしかお目にかかれないはずだ。その微笑みは一瞬、外に広がる世界の全景とじかに向かい合う。あるいは向かい合ったかのように見える。それからぱっと相手一人に集中する。たとえ何があろうと、私はあなたの側につかないわけにはいかないのですよ、とでもいうみたいに。その微笑みは、あなたが「ここまでは理解してもらいたい」と求めるとおりに、あなたを理解してくれる。自らがこうあってほしいとあなたが望むとおりのかたちで、あなたを認めてくれる。あなたが相手に与えたいと思う最良の印象を、あなたは実際に与えることができたのだと、しっかり請け合ってくれる。そしてまさにそのポイントにおいて、微笑みは消える——

 

村上春樹 訳  

スコット・フィッツジェラルド 「グレート・ギャツビー」第8章

  電話はかかってこなかったけれど、執事は居眠りもせず、四時まで律儀に電話を待っていた。仮にメッセージが来たとところで、それを伝える相手が存在しなくなってしまってからも、まだ延々と待ち続けていたわけだ。僕は思うのだが、そんな電話がかかってくるとはギャツビー自身もう期待していなかったし、かかってきてもこなくても、どちらでもかまわないという気になっていたのではあるまいか。もしそうだったら、かつての温もりを持った世界が既に失われてしまったことを、彼は悟っていたに違いない。たったひとつの夢を胸に長く生きすぎたおかげで、ずいぶん高い代償を支払わなくてはならなかったと実感していたはずだ。彼は威嚇的な木の葉越しに、見慣れぬ空を見上げたことだろう。そしてバラというものがどれほどグロテスクなものであるかを知り、生え揃っていない芝生にとって太陽の光がどれほど荒々しいものであるかを知って、ひとつ身震いしたことだろう。その新しい世界にあってはすべての中身が空疎であり、哀れな亡霊たちが空気のかわりに夢を呼吸し、たまさかの身としてあたりをさすらっていた……ちょうどまとまりなく繁った木立を抜けて彼の方に忍び寄る、灰をかぶったような色合いの奇怪な人影のごとく。

 

村上春樹 訳    

スコット・フィッツジェラルド 「グレート・ギャツビー」第9章

「友情とは相手が生きているあいだに発揮するものであって、死んでからじゃ遅いんだということを、お互いに学びましょうや」と彼は意見を述べた。「死んだ人間はただそっとしておけというのが、あたしのルールです」

 

村上春樹 訳  

村上春樹 「ノルウェイの森」第3章

  永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短い」

 

  僕は頭の中で計算してみた。「でもスコット・フィッツジェラルドが死んでからまだ二十八年しか経っていませんよ」
「構うもんか、二年くらい」と彼は言った。「スコット・フィッツジェラルドくらいの立派な作家はアンダー・パーでいいんだよ」  

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第6章

  しかしワールドワイドウェブは、バーナーズ=リーが意図し、多くの人々が切望したものとは全く異なっていた。テキストの表示だけではなく、画像の表示やトランザクション処理も行える汎用媒体を作ったことによって、ウェブはインターネットを知的集会所から営利企業へと変えた。バーナーズ=リーが発明を公開した直後の短い期間、ウェブでは商業活動は全く行われていなかった。1993年末の時点で、ドットコムのドメインにあるサイトは五パーセントに満たなかった。しかし、新しい媒体の収益力が明らかになると企業が殺到し、商業的なサイトが急速にネットワークを支配するようになった。1995年末には、全サイトの半分はドットコムのアドレスを持ち、1996年半ばになると、商業的サイトは全体のほぼ七十パーセントを占めた。 "サマー・オブ・ラブ"から三十年後、若者たちが再びサンフランシスコに集まり始めた。しかし、その目的は自由詩を聞くことでも、麻薬に耽るためでもなかった。若者たちは荒稼ぎするために来たのだ。ウェブは心の拠り所ではなく、ビジネスの拠り所となった。
  インターネットはこれまで常に、その動作の仕方でも、利用のされ方、認識のされ方でも、多くの矛盾に満ちた仕組みだった。インターネットは、官僚的支配の道具でありながら個人を解放する道具でもあり、共同体の理想と企業の収益の双方につながる導管である。ネットが世界的なコンピューティングネットワークとなり、多目的技術として利用される機会が増えるにつれて、こうした技術的・経済的・社会的緊張はより顕著になりつつある。この緊張を解決することが、良くも悪くも、来るべき時代にネットワークがどのような結末を迎えるかを決めるだろう。

 

村上彩 訳  

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第7章

  これらの事業が実証しているのは、経済学者が「規模に対して収穫逓増」と呼ぶ、通常とは異なる経済的行動である。要するに、多く売れば売るほど、より儲かる、という意味だ。その原動力は、産業界で優勢な力とは全く異なるものである。なぜなら、往来のビジネスは、「規模に対して収穫逓減」の支配下にあるからだ。物理的な商品の生産者がその生産高を増やすと、遅かれ早かれ、製品を作って売るのに必要な原料、部品、供給、不動産および労働者への投入に対して、より多くを支払わなければならなくなる。生産者は「規模の経済」を達成することで、投入コストの上昇を相殺することができる。しかし最終的には、コスト上昇が「規模の経済」を圧倒して、企業の利益すなわち収穫は縮小し始める。この収穫逓減の法則が有効に働くと、企業の規模、あるいは少なくとも企業の利益の規模に制限を課すことになる。
  最近まで、情報商品の大半も、収穫逓減の支配下にあった。なぜなら、情報商品は物理的な方法で流通せざるを得なかったからだ。言葉は紙に印刷し、動画はフィルムに撮影し、ソフトウェアコードはディスク上へ書き込まなければならなかった。しかしインターネットは、情報商品を形のない1と0の羅列に変えて、物理的な流通から解放するとともに、収穫逓減の法則からも解放した。デジタル商品は、基本的にコストをかけずに無限に複製することができるので、生産者は事業が拡大しても、原材料の購買を増やす必要はない。さらに多くの場合、ネットワーク効果という現象によって、デジタル商品を利用する人数が増えるとともに、その商品の価値も上がっていく。・・・売り上げや利用者数が増えるにつれて、収益も拡大していくのだ——それも無限大に。

 

村上彩 訳  

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第7章

ここで、ユーチューブの事例をもっと詳しく見てみよう。ユーチューブは、放映している何十万タイトルものビデオに一セントも払っていない。すべての制作コストは、サービスのユーザーが負担している。ユーザーはディレクター、制作者、執筆者、役者であり、その作品をユーチューブのサイトにアップロードすることで、実質的には労働力をユーチューブに寄付している。「ユーザーがコンテンツを制作する」という貢献の仕方は、インターネット上ではごく普通のことで、ユーザーたちはさまざまなウェブビジネスに原材料を提供しているのである。何百万人もの人々がブログやブログのコメントを通じて共有している表現や思想は、企業によって収集・配給されている。オープンソースソフトウェアプロジェクトに貢献している人々もまた、労働を寄付している。しかも、彼らの努力の産物が、IBM、レッドハット、オラクルといった営利企業によって商品化されることがあるにもかかわらずである。人気のオンライン百科辞典であるウィキペディアは、ボランティアによって執筆・編集されている。地域情報検索サイトのイェルプ(Yelp)も、会員が寄稿するレストラン、店舗、地域アトラクションのレビューに支えられている。通信社のロイターは、アマチュアから寄せられた写真やビデオをシンジゲート化しているが、使用料は払ってもごくわずか、大半は無報酬である。マイスペースフェイスブックのようなソーシャルネットワーキングサイトや、PlentyOfFishのような出会い系サイトは、基本的に会員の独創的で無給の貢献が集約されてできあがっている。昔の小作農業さながらのねじれ構造のなかで、サイトのオーナーたちは土地と道具を提供して、会員にすべての作業をやらせて、経済的な報酬を獲得しているのである。

人々がこの種のサイトに貢献する最大の理由は、趣味を追求したり、慈善の目的のために時間を割く理由と大差ない。つまり、楽しいからである。満足感を得られるからである。

ただし、これまでと違うのは、貢献の範囲、規模および洗練の度合いであり、等しく重大なのは、無報酬の労働を戦力化し、それを価値ある商品やサービスに変えてしまう企業の能力なのである。

もちろん、これまでもボランティアは常に存在した。しかしいまや、以前とは比べ物にならないスケールで、無給の労働者が有給の労働者に取って変わることができるのだ。業界はこの現象を言い表す用語まで考えついた。すなわち、クラウドソーシングである。生産手段は大衆の手に渡しておきながら、その共同作業の産物に対する所有権を大衆に与えないことで、ワールドワイドコンピュータは多くの人々の労働の経済的な価値を獲得して、それを少数の人々の手に集約するための極めて効率的なメカニズムを提供しているのである。

村上彩 訳

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第8章

物理的な形状を失ってインターネットに軸足を移してしまうと、情報媒体としての、また事業としての新聞の性格は変わってしまう。新聞は異なる方法で読まれ、異なる方法で金を儲けることになる。・・・
新聞がオンラインへ移行すると、このまとまりはバラバラになる。・・・読者は興味のある記事に直行して、その他は無視することもしばしばである。・・・新聞社にとっても、一つのまとまりとしての新聞の重要性はますます低減している。重要なのは部分である。それぞれの記事は別個の商品となって、むきだしのまま市場に並ぶ。記事の評価は、その経済的価値によって決まるのである。・・・
経済的に言うと、最も成功した記事とは、多くの読者を引き付けるだけでなく、高額な広告を取れるテーマを扱った記事なのである。つまり、最も成功した記事とは、料金の高い広告をクリックしてくれる読者を大勢引き付けた記事なのである。・・・

コンテンツのバラ売りは、新聞その他の印刷出版物に限ったことではない。大部分のオンラインメディアに共通する特徴である。

経済専門家は早速、メディア商品が部分に分解されたことを賞賛している。彼らの見方によれば、そのようにこそ市場は動くべきなのである。消費者は欲しくもないものにお金を"浪費"する必要もなく、本当に欲しいものだけを買うことができるだろう。『ウォールストリート・ジャーナル』は「もはや、良いものを手に入れるためにクズに金を払うようなことは必要のない」新しい時代を宣言するものだとして、この進歩を称賛した。この見方は多くの場合正しいだろうが、あらゆる点で正しいわけではない。独創的な商品は他の消費財とは異なる。他の市場では歓迎される経済効率も、文化を築くための礎に適用する場合には、あまり有益な影響は及ぼさないだろう。そしてインターネットという特異な市場では、あらゆる種類の情報が無料で配られる傾向があり、お金は広告のような間接的な手段で儲けられているということを覚えておくべきだろう。このような市場で、いったん視聴者と広告の両方を細分化すると、ある種の創造的な商品を生産するために多額の投資をすることがビジネス的に正しいかどうかを判断するのは、ますます難しくなってしまう。
もしニュース産業が時代の流れを暗示しているとしたら、我々の文化から淘汰される運命にある"石屑"には、多くの人々が「優れたもの」と判断するような産物も含まれてしまうだろう。犠牲になるのは、平凡なものではなく、質の高いものだろう。ワールドワイドコンピュータが作り出した多様性の文化は、じつは凡庸の文化であることがいずれわかるだろう。何マイルもの広がりがありながら、わずか一インチの深さしかない文化だ。


インターネットは情報収集からコミュニティづくりに至るまで、あらゆることを簡単な処理に変えて、大抵のことはリンクをクリックするだけで表面できるようになった。そうした処理は、一個一個は単純でも、全体としては極めて複雑だ。我々は一日に何百何千というクリックを意図的に、あるいは衝動的に行っているが、そのクリックのたびに、自分自身のアイデンティティや影響力を形成し、コミュニティを構築しているのだ。我々がオンラインでより多くの時間を過ごし、より多くのことを実行するにつれて、そのクリックの複合が、経済、文化および社会を形作ることになるだろう。
クリックがもたらす結果が明らかになるまでには長い時間がかかるだろう。しかし、インターネット楽観主義者が抱きがちな希望的観測、すなわち「ウェブはより豊かな文化を創造し、人々の調和と相互理解を促進するだろう」という考えを懐疑的に扱わなければならないのは明らかだ。文化的不毛と社会的分裂もまた、等しくあり得る結果なのだ。

村上彩 訳

*社会的分裂→ネットユーザーは自分の見解を裏付ける情報を収集したり、価値観の似かよった人との交流を求めがちであり、結果、より極端に走る傾向にあることが指摘されている。

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第10章

  人々がオンラインに費やす時間が増えれば増えるほど、データベースに人生や欲望の詳細を詰め込めば詰め込むほど、ソフトウェアプログラムはますます巧みに、人々の行動の微妙なパターンを発見して利用できるようになる。そのプログラムを利用する人間や組織は、人々が何を求め、何を動機とし、さまざまな刺激に対してどのように反応するかを識別できるようになるだろう。プログラムを利用する側は、まさにぴったりの決まり文句を使うなら、我々が知る以上に、我々のことを知っているのである。
  ワールドワイドコンピュータは、自己表現と自己実現のための新たなチャンスとツールをもたらすと同時に、一部の人々には前例のない能力を与えている。それは、他人の考え方と行動に影響を与えて、その関心と行動を自分たちの目的に沿うように収斂させる能力である。テクノロジーには、解放してコントロールするという、相反する特質がある。その特質の間に生じる緊張がいかに解決されるかによって、テクノロジーが社会と個人にもたらす最終的な結果は概ね決まるだろう。

 

  ギャロウェーが言うように、以前はつながれていなかったコンピュータを厳格なプロトコルによって支配されているネットワークにつなげることは、実際には「新たな支配装置」を作り上げてしまった。「ネットの設立原理は"支配"であって"自由"ではない。最初から支配は存在していたのである」。本質的に異なるワールドワイドウェブのページが、ワールドワイドコンピュータの一元的でプログラミング可能なデータベースに変化するにつれて、さらに強力な新しい種類の支配が可能になっている。プログラミングは結局、支配の手段以外の何者でもないのである。技術的には、インターネットがまだセンターを有していない場合であっても、いまやソフトウェアコードを通じてどこからでも支配を行使することができる。現実世界と比較して異なる点は、支配的行動を感知することはより難しく、支配する者を認識することもより難しいということである。

 

  結局、我々自身も、インターネットが可能にした個人化から利益を得ている。インターネットは我々を完璧な消費者兼労働者としたのだ。我々は、より大きな便宜のために、より大きな支配を受けている。クモの巣は我々にぴったりと合っていて、捕まっていても結構快適なのである。

村上彩 訳

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第11章

「我々全員の内面で、複雑で内的な濃密さが、新しい自己に置き換わっている。それは、情報過多のプレッシャーと"何でもすぐに使えるようにする"技術の下で形成された自己である」。我々は「濃密な文化的遺産でできた精神的レパートリー」を捨てて空っぽにして、「パンケーキのような人間になる。薄く広く広がって、ボタンをちょっと押せばアクセスできる情報の巨大ネットワークにつながる」ようになるだろうと、フォアマンは結論付けている。
*リチャード・フォアマン 脚本家

メディアは、単なるメッセージではない。媒体は、頭脳でもある。我々が何を、どのように見るかを具体化する。印刷されたページは、過去五百年にわたって主要な情報媒体であり、我々の思考を形成してきた。ニール・ポストマンが指摘したように「論理、順序、履歴、注解、客観性、自立性および規律の重要性を強調してきた」一方、我々の新しい汎用媒体であるインターネットは、全く別のことを強調している。インターネットが重視するのは即時性、同時性、偶然性、主観性、廃棄可能性、そしてとりわけ速度である。ネットは何事に関しても、立ち止まって深く思考する動機を与えない。フォアマンが重要視する「知識の濃密な貯蔵庫」を我々の記憶の中に築こうとはしないのである。ケリーが言うように「自分で覚えておくよりも、二〜三回ググる」ほうが簡単なのである。インターネット上では、我々は大急ぎでリンクからリンクへと移動しながら、データのつるつるした表層を滑り回ることを強要されているように思える。
商業システムとしてのインターネットは、こうした行動を促進するように設計されている。我々はウェブのシナプスなのだ。我々がより多くのリンクをクリックして、ページを見て、処理して、それも速ければ速いほど、ウェブはより多くの知的情報を収集して、より多くの経済的価値を獲得して、より多くの利益を生み出す。我々がウェブ上では「パンケーキ人間」になったように感じるのは、それが我々に割り当てられた役割だからだ。ワールドワイドコンピュータと、ワールドワイドコンピュータをプログラムする人々は、フォアマンが言う「厚みがあり、複雑な質感で、密度の濃い、深く醸成された個性」を我々が発揮することにはほとんど関心を持っていない。彼らが我々に求めているのは、極めて効率的なデータ処理装置として動作し、人間の活動や目的をはるかに凌駕する知的機械の歯車となることである。インターネットの能力、範囲および有用性の拡大がもたらした最も革命的な結果は、コンピュータが人間のように考え始めることではなく、我々がコンピュータのように考えることなのだ。リンクを重ねるたびに、我々の頭脳は「"ここ"で見つけたもので"これを行え"、その結果を受けて"あちら"に行く」ように訓練される。その結果、我々の意識は希薄になり、鈍化していくだろう。我々が作っている人工知能が、我々自身の知能になるかもしれないのだ。

村上彩 訳