本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」エピローグ

「ロウソクの弱々しい光の中では、周囲の物が全く異なる、より際立った輪郭を見せることに私たちは気付いた。ロウソクの炎は、物に"現実味"を与えるのだ」この現実味は「電灯では失われてしまった。(一見すると)物はよりはっきりと見えるようだが、現実味という点では、鈍化してしまう。電灯は明るすぎるので、物はその本体や輪郭や質感を失う——ひとことで言えば、本質を見失ってしまうのだ」
・・・我々はもはや、炎が証明源だった時代が実際どんなふうだったかは知らない。エジソンの電球が登場する以前の生活を記憶している人々はわずかになってしまった。その人たちが亡くなれば、電気が登場する以前の昔の世界の記憶も失われてしまう。世紀の終わり頃には、コンピュータとインターネットが当たり前になる前の世界記憶に、同じことが起きるだろう。我々は、その記憶を持ち去る人々となるだろう。
  すべての技術的変化は、世代の交代である。新しい技術の最大限の力と重要性が発揮されるのは、その技術とともに育った人たちが大人になって、時代遅れの親世代を脇に追いやるようになってからだ。旧世代が世を去るにつれて、新技術が登場したときに失われた事物の記憶も失われ、獲得されたものの記憶だけが残るのだ。このようにして、進歩はその痕跡を覆い隠し、絶え間なく新たな幻想を生み出す——我々がここにいるのは、我々の運命なのだという幻想を。

 

村上彩 訳  

シュテファン・ツヴァイク 「人類の星の時間」序文

  どんな芸術家もその生活の一日の24時間中絶えまなく芸術家であるのではない。彼の芸術創造において成就する本質的なもの、永続的なものは、霊感によるわずかな、稀な時間の中でのみ実現する。それと同様に、我々があらゆる時間についての最大の詩人と見なし叙述家として感嘆するところの歴史も、決して絶えまなき創造者であるのではない。「神の、神秘に充ちている仕事場」——歴史をゲーテは畏敬をもってそう呼んだが——の中でもまた、取るにたりないことや平凡なことは無数に多く生じている。芸術と生命との中で常にそうであるように歴史の中でもまた、崇高な、忘れがたい瞬間というものは稀である。多くの場合歴史はただ記録者として無差別に、そして根気よく、数千年を通じてのあの巨大な鎖の中に、一つ一つ事実を編み込んでゆく。要するにどんな緊張のためにも準備の時がなければならず、どの出来事の具体化にも、そうなるまでの進展が必要だからである。一つの国民の中に常に無数の人間が存在してこそ、その中から一人の天才が現われ出るのであり、常に無数の坦々たる世界歴史の時間が流れ去るからこそ、やがていつか本当に歴史的な、人類の星の時間というべきひとときが現われ出るのである。

  芸術の中に一つの天才精神が生きると、その精神は多くの時代を超えて生き続ける。世界歴史にもそのような時間が現われ出ると、その時間が数十年、数百年のための決定をする。そんな場合には避雷針の尖端に大気全体の電気が集中するように、多くの事象の、測り知れない充満が、極めて短い瞬時の中に集積される。普通の場合には相次いで、また並んでのんびりと経過することが、一切を確定し、一切を決定するような一瞬時の中に凝縮されるが、こんな瞬間は、ただ一つの肯定、ただ一つの否定、早過ぎた一つのこと、遅過ぎた一つのことを百代の未来に到るまで取返しのできないものにし、そして一個人の生活、一国民の生活を決定するばかりか全人類の運命の経路を決めさえもするのである。

 

片山敏彦 訳  

工藤直子 「ねこはしる」

「いや  ちがうんだラン!よく聞いて
  きみになら……ともだちのきみになら
〈たべられる〉のじゃなく
〈ひとつになる〉気がするんだ

  おれ  アタマも  ひれも  心も
  きみに  しっかりとたべてもらいたい
  そうすることで  おれ  きみに
  ……きみそのものに  なれると思う

  な  ラン  目をとじて  感じてみよう
  ——おれのちいさなからだや心が
  きみのからだや心のすみずみまでしみとおる」

 

*おれ=池の魚   ラン=魚と仲良くなった子猫  

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

  五十歳になると人はそろそろ、ある種の子供っぽい愚行をしたり、名声や信用を得ようとしたりすることをやめる。そして自分の人生を冷静に回顧しはじめる。彼は待つことを学ぶ。彼は沈黙することを学ぶ。彼は耳を傾けることを学ぶ。そしてこれらのよき賜物を、いくつかの身体的欠陥や衰弱という犠牲を払って得なくてはならないにしても、彼はこの買い物を利益と見なすべきである。
      *
  私は死にあこがれる。しかし、それは早すぎる死や、成熟しないうちに死ぬことではない。そして成熟と知恵をもとめるあらゆる欲望の中で、私はまだ人生の甘美で陽気な愚かさにすっかり夢中になっている。愛する友よ、私たちはみな、すばらしい知恵と甘美な愚かさをどちらも手に入れたいと望む!私たちはこれからも何度もともに前進し、ともにつまずこう。どちらもすばらしいことではないか。 

 

老いること
こういうことだ 老いることは かつての喜びが
苦労となり 泉も濁って出が悪くなる
その上苦痛さえも風味がなくなる——
人は自ら慰める 間もなくすべて終わりになると

私たちが昔あんなに強く拒絶した
束縛と重荷と負わされたもろもろの義務が
逃避の場となり慰めになってしまった
人はやはりまだ日々のつとめを果たしたいと思う

だがこのささやかな慰めも長くは続かない
魂は空を飛ぶ翼を渇望する
魂は自我と時間のはるかかなたに死を予感する
そして死をむさぼるように深々と吸い込む

 

岡田朝雄 訳 

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

  自然の生命のある現象が私たちに語りかけ、その真実の姿を見せてくれるこのような瞬間を体験すると、私たちが十分年をとっている場合には、喜びと苦しみを味わい、愛と認識を体験し、友情と愛情をもち、書物を読み、音楽を聴き、旅行をし、そして仕事をしてきたその長い全生涯が、まるで、ひとつの風景、一本の木、ひとりの人間の顔、一輪の花の姿に神が示現し、一切の存在と事象の意味と価値が示されるこのような瞬間への、長いまわり道以外の何ものでもなかったように思われるであろう。
  そして事実、私たちが若いころに、花の咲いている木や、雲の形のできかたや、雷雨などの光景を見て、老年におけるよりももっと強烈な、燃えるような体験をしたとしても、私の言っているような体験をするためには、やはり高齢であることが必要である。数知れないほどたくさんの見てきたものや、経験したことや、考えたことや、感じたことや、苦しんだことが必要なのだ。自然のひとつのささやかな啓示の中に、神を、精霊を、秘密を、対立するものの一致を、偉大な全一なるものを感じるためには、生の衝動のある種の希薄化、一種の衰弱と死への接近が必要なのである。若者たちもこれを体験しないわけではないが、ずっと稀なことはたしかである。若者の場合は、感情と思想の一致、感覚的体験と精神的体験の一致、刺激と意識の一致がないからである。

 

  老年は、私たちの生涯のひとつの段階であり、ほかのすべての段階とおなじように、その特有の顔、特有の雰囲気と温度、特有の喜びと苦悩を持つ。私たち白髪の老人は、私たちよりも若いすべての仲間たちと同じように、私たち老人の存在に意義を与える使命を持つ。ベッドに寝ていて、この世からの呼びかけがもうほとんど届かない重病人や、瀕死の人も、彼の使命をもち、重要なこと、必要なことを遂行しなければならない。年をとっていることは、若いことと同じように美しく神聖な使命である。死ぬことを学ぶことと、死ぬことは、あらゆるほかのはたらきと同様に価値の高いはたらきである——それがすべての生命の意義と神聖さに対する畏敬をもって遂行されることが前提であるけれど。老人であることや、白髪になることや、死に近づくことをただ厭い、恐れる老人は、その人生段階の品位ある代表者ではない。自分の職業と毎日の労働を嫌い、それから逃れようとする若くたくましい人間が、若い世代の品位ある代表者でないのと同様に。

 

岡田朝雄 訳

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

  私たち老人がこれをもたなければ、追憶の絵本を、体験したものの宝庫をもたなければ、私たちは何であろうか!どんなにつまらなく、みじめなものであろう。しかし私たちは豊かであり、使い古された身体を終末と忘却に向かって運んで行くだけでなく、私たちが呼吸している間は、生きているあの宝の担い手であるのだ。
    *
  叡智と私たちとの関係は、アキレスと亀の論証のようなものである。叡智が常に先行しているのだ。それに達するまでの途中は、その魅力を追いかけることは、それでもやはりすばらしい道である。
    *
  すばらしい魔物、万物が変転するという燃えるように悲しい魔力よ!しかし、それよりもはるかにすばらしいのは、過ぎ去ってしまわぬこと、存在したものが消滅しないこと、それがひそかに生きつづけること、そのひそやかな永遠性、それを記憶によみがえらせることができること、たえずくりかえし、それを呼びもどす言葉の中に、生きたまま埋められていることである。

 

岡田朝雄 訳 

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

  私たち老人にとって現実はもはや生ではなく、死である。その死を私たちはもう外部からくるのを待つのではなく、それが私たち内部に住んでいることを知る。私たちはなるほど私たちを死に近づかせる老衰や苦痛に抵抗はするけれど、死そのものには抵抗しない。私たちは死を受け入れたのだ。私たちが以前よりもっと自分の体に気をつけ、大切にするように、死をも気をつけて大切にする。死は私たちとともにあり、私たちの内にある。死は私たちの空気であり、私たちの使命であり、私たちの現実である。 

 

  私たちは南洋の未発見の入り江に、地球の両極に、風や、潮流や、稲妻や、雪崩の解明に好奇心をもつ。——しかし私たちは、それよりも、死に、この存在の最後の、そして最も勇気のいる体験に、はかり知れないほどのはるかに強烈な好奇心をもっている。なぜなら、あらゆる認識と体験の中で、私たちがその認識と体験を得るためには喜んで命を捧げるに値する認識と体験だけが、正当で、満足できるものだということを確信しているからである。

 

岡田朝雄 訳 

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

私たちは苦しみと病を体験した。私たちは死によって多くの友人たちを失った。そして死は、私たちの窓を外から叩くだけでなく、私たちの内部でも仕事をし、その仕事をはかどらせた。かつてはあんなにあたりまえのものであった生は、ひとつの高価な、常に脅威にさらされている財産となった。あの当然私たちのものだと思っていた所有物は、期限不定の貸与物に変わってしまった。
けれど、解約告知期限の決まっていないこの貸与物は、けっしてその価値を失ったのではない。それが危険にさらされているという事実は、その価値を高めた。私たちは依然と同じように生命を愛している。そして人生には特に、素性のよいワインのように、年とともにコクと価値を減ずるどころか、かえって増大する愛情と友情があるので、私たちは人生に忠実でありつづけようと思うのである。

死に対して、私は昔と同じ関係をもっている。私は死を憎まない。そして死を恐れていない。私が、妻と息子たちに次いで誰と、そして何と最も多く、最も好んでつきあっているかを一度調べてみれば、それは死者だけであること、あらゆる世紀の、音楽家の、詩人の、画家の、死者であることがわかるだろう。彼らの本質はその作品の中に濃縮されて生きつづけている。それは私にとって、たいていの同時代人よりもはるかに現在的で、現実的である。そして私が生前知っていた、愛した、そして「失った」死者たち、私の両親ときょうだいたち、若い頃の友人たちの場合も同様なのである——彼らは、生きていた当時と同様に今日もなお私と私の生活に属している。私は彼らのことを思い、彼らを夢に見、彼らをともに私の日常生活の一部とみなす。このような死との関係は、それゆえ妄想でも美しい幻想でもなく、現実的なもので、私の生活に属している。私は無常についての悲しみをよく知っている。それを私はあらゆる枯れてゆく花を見るときに感じることができる。しかしそれは絶望をもたぬ悲しみである。


兄弟である死
私のところへもおまえはいつかやって来る
おまえは私を忘れない
そうすれば苦しみは終わり
鎖は断ち切れるのだ

まだおまえは縁遠くはるかなものに見える
愛する兄弟である死よ
おまえはひとつの冷たい星となって
私の苦境の上空に輝いている

けれどいつかおまえは近づいて来て
炎を上げて燃えるだろう——
来るがいい 愛する兄弟よ 私はここにいる
私を連れて行け 私はおまえのものだ


岡田朝雄 訳

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」はじめに

歴史分析と、ちょっと広い時間的な視野の助けを借りると、産業革命以来、格差を減らすことができる力というのは世界大戦だけだったことがわかる。

 

  富が集積され分配されるプロセスは、格差拡大を後押しする強力な力を含んでいる、というか少なくともきわめて高い格差水準を後押しする力を含んでいる。収斂の力も存在はするし、ある時期の一部の国ではそれが有効になるかもしれないが、格差拡大の力はいつ何時上手を取るやもしれない。これが21世紀初頭の現在どうやら起こっているらしい。今後数十年で、人口と経済双方の成長率は低下する見通しが高いので、このトレンドはなおさら懸念される。
  根本的な不等式r>g、つまり私の理論における格差拡大の主要な力は、市場の不完全性とは何ら関係ないということは念頭においてほしい。その正反対だ。資本市場が完全になればなるほど(これは経済学的な意味での話だ)、rがgを上回る可能性も高まる。この執念深い論理の影響に対抗できるような公共制度や政策は考えられる。たとえば、資本に対する世界的な累進課税などだ。

 

本書は論理的に言えば『21世紀の夜明けにおける資本』という題名にすべきだっただろうが、その唯一の目的は、過去からいくつか将来に対する慎ましい鍵を引き出すことだ。歴史は常に自分自身の道筋を発明するので、こうした過去からの教訓がどこまで実際に役立つかはまだわからない。私はそれを、その意義をすべて理解しているなどと想定することなしに、読者に提示しよう。

 

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳
r=資本収益率 g=成長率
*収斂に向かう主要な力として、知識や技能の普及が挙げられている。

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第I部 所得と資本

第1章 所得と産出
  まとめると、国際レベルでも国内レベルでも、収斂の主要なメカニズムは歴史体験から見て、知識の普及だ。言い換えると、貧困国が富裕国に追いつくのは、それが同水準の技術ノウハウや技能や教育を実現するからであって、富裕国の持ち物になることで追いつくのではない。知識の普及は天から降ってくる恩恵とはちがう。それは国際的な開放性と貿易により加速される(自給自足は技術移転を後押ししない)。何よりも、知識の普及はその国が制度と資金繰りを動員し、人々の教育や訓練への大規模投資を奨励して、各種の経済アクターがあてにできるような、安定した法的枠組みを保証するようにできるかどうかにかかっている。だからこれは、正当性のある効率よい政府が実現できるかどうかと密接に関連しているのだ。簡単に言うと、これが世界の成長と国際的な格差について歴史が教えてくれる主要な教訓となる。

 

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳 

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第II部 資本/所得比率の動学

第6章 21世紀における資本と労働の分配より
  第一に、歴史的な低成長レジームへの回帰、特にゼロあるいはマイナスの人口増加は、論理的に資本の復活をもたらす。低成長社会が非常に大きな資本ストックを再構築するという傾向はβ=s/gの法則で表され、これをまとめるなら、停滞した社会では過去に蓄積された富が、自然とかなりの重要性を持つということだ。
β=資本/所得比率 s=貯蓄率 g=成長率

 

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳 

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第III部 格差の構造

第7章 格差と集中
  実際に所得格差を比較すると、最初に気づく規則性は、資本の格差が、労働所得の格差よりも常に大きいということだ。資本所有権(そして資本所得)の分配は、常に労働所得の分配よりも集中している。
  この規則性はデータが入手可能なあらゆる国のあらゆる時代に例外なく見られ、しかもその現れ方は常に相当強烈だということだ。その差がいかに大きいかをざっとつかんでもらうと、労働所得分布の上位10パーセントが、通常は全労働所得の25-30パーセントを稼いでいるのに対し、資本所得分布の上位10パーセントは、常にすべての富の50パーセント以上(社会によっては90パーセント以上)を所有している。おそらくさらに驚くべきこととして、賃金分布の下位50パーセントは全労働者のかなりの部分をもらっているのに対し、富の分布の下位50パーセントが所有しているものは、まったくのゼロか微々たるものだ。労働所得の格差は通常穏やかで小さく、ほとんど妥当とさえ言える。これに比べて、資本に関する格差は常に極端だ。

 

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第III部 格差の構造

第10章 資本所有の格差
伝統的農耕社会と、第一次世界大戦以前のほぼすべての社会で富が超集中していた第一の原因は、これらが低成長社会で、資本収益率が経済成長率に比べ、ほぼ常に著しく高かったことだ。
たとえば成長率が年約0.5-1パーセントと低い世界を考えよう。18、19世紀以前はどこでもその程度の成長率だった。資本収益率は、一般的には年間4、5パーセントほどなので、成長率よりもかなり高い。具体的には、たとえ労働所得がまったくなくても、過去に蓄積された富が経済成長よりもずっと早く資本増加をもたらすわけだ。


経済成長は人類の歴史の大半を通じてほぼゼロだった。人口動態を経済成長と組み合わせれば、古代から17世紀までの長い間、年間経済成長率は0.1-0.2パーセント以下だったと言える。多くの歴史的不確実性はあるが、資本収益率が常にこれより高かったのはたしかだ。年間資本収益率の長期的中央値は4-5パーセントだ。特に多くの伝統的農耕社会では、これは土地からの収益率となる。もしももっと低い純粋な資本収益率の推定値を受け入れたとしても、最低限の資本収益率として少なくとも年間2-3パーセントは残り、依然として0.1-0.2パーセントよりはずっと大きい。このように、人類は歴史の大半を通じて、資本収益率は常に生産(そして所得)成長率の少なくとも10倍から20倍は大きかったというのは、避けられない事実だ。


税引後の純粋な資本収益率は1913-1950年には1-1.5パーセントにまで低下し、経済成長率よりも低くなった。この新たな状況は例外的に高い経済成長率によって1950-2012年まで続いた。結果的に、20世紀には財政的、非財政的ショックの両方によって、歴史上初めて、純粋な資本収益率が経済成長率よりも低いという事態が生まれた。状況の連鎖(戦時の破壊、1914-1945年のショックが可能にした累進課税政策、第二次世界大戦後の30年間の例外的成長)が、歴史上類を見ない事態を生み出し、それがほぼ1世紀近く続いた。でもどの指標を見ても、この状況の終わりは近いようだ。国家間の税制競争がその論理的帰結まで進むなら——実際そうなるかもしれない——rとgの差は21世紀のどこかの時点で、19世紀に近い水準に戻るだろう。
*r=資本収益率 g=成長率


資本収益率が常に際立って成長率よりも高いという事実は、富の不平等な分配を強力に後押ししている。


第11章 長期的に見た能力と相続
私が本書で強調してきた格差を拡大させる基本的な力は、市場の不完全性とは何の関係もなく、市場がもっと自由で競争的になっても消えることのない、不等式r>gにまとめられる。制限のない競争によって相続に終止符が打たれ、もっと能力主義的な世界に近づくという考えは、危険な幻想だ。普通選挙権の到来と財産に基づいた投票資格が終わったことで、金持ちによる政治の合法的な支配は終わった。でもそれが、不労所得生活者社会を生み出しかねない経済力を無効にしたわけではないのだ。


山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第III部 格差の構造

第12章 21世紀における世界的な富の格差
  インフレの主な影響は、資本の平均収益を減らすことではなく、それを再分配することなのだ。そしてインフレの影響は複雑で多次元的だが、圧倒的多数の証拠が示している通り、インフレが招く再分配は、主に最も裕福でない人には不利益に、最も裕福な人には利益になる。よって一般に望ましい方向とは正反対と言える。あらゆる人が資産管理に費やす時間を増やすという点で、インフレが純粋な資本収益をわずかに減らす可能性があるのはたしかだ。この歴史的変化は、非常に長期的な資本の減価償却率の増加に似ていると言えるかもしれない。この増加には、投資判断や、古い資産と新しい資産の入れ替えが、もっと頻繁に必要になるのだ。どちらの場合も今日では、所定の収益を得るために少し多く働かなければならない。だから資本はもっと「ダイナミック」になった。だがこれらはレントと戦う方法としては比較的まわりくどく、非効率的だ。これらの原因による純粋な資本収益のわずかな減少は、資本収益の格差拡大よりもはるかに規模が小さいことが実証されているからだ。特に、巨額の財産にはほとんど脅威を与えない。
  インフレはレントを排除しない。それどころか、おそらく資本の分配の格差をさらに拡大するのに一役買うだろう。
  累進資本課税のほうが、民主的透明性と、現実の有効性の両方において、もっと適切な政策だ。

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

*第Ⅳ部 15章16章で、累進資本課税とインフレによる富の再分配について詳細に議論されている。

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」おわりに

  本研究の総合的な結論は、民間財産に基づく市場経済は、放置するなら、強力な収斂の力を持っているということだ。これは特に知識と技能の拡散と関連したものだ。でも一方で、格差拡大の強力な力もそこにはある。これは民主主義社会や、それが根ざす社会正義の価値観を脅かしかねない。
  不安定化をもたらす主要な力は、民間資本収益率rが所得と産出の成長率gを長期にわたって大幅に上回り得るという事実と関係がある。
  不等式r>gは、過去に蓄積された富が産出や賃金より急成長するということだ。この不等式は根本的な論理矛盾を示している。事業者はどうしても不労所得者になってしまいがちで、労働以外の何も持たない人々に対してますます支配的な存在となる。いったん生まれた資本は、産出が増えるよりも急速に再生産する。過去が未来を食い尽くすのだ。

  正しい解決策は資本に対する年次累進税だ。これにより果てしない不平等スパイラルを避けつつ、一次蓄積の新しい機会を作る競争とインセンティブは保持される。

  むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

*金持ちは簡単に資産を国外に移せるし、非公開株式などを含めあらゆる資産に課税しない限り累進資本税が無意味であることが、第Ⅳ部で論じられている。