本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第11章

「我々全員の内面で、複雑で内的な濃密さが、新しい自己に置き換わっている。それは、情報過多のプレッシャーと"何でもすぐに使えるようにする"技術の下で形成された自己である」。我々は「濃密な文化的遺産でできた精神的レパートリー」を捨てて空っぽにして、「パンケーキのような人間になる。薄く広く広がって、ボタンをちょっと押せばアクセスできる情報の巨大ネットワークにつながる」ようになるだろうと、フォアマンは結論付けている。
*リチャード・フォアマン 脚本家

メディアは、単なるメッセージではない。媒体は、頭脳でもある。我々が何を、どのように見るかを具体化する。印刷されたページは、過去五百年にわたって主要な情報媒体であり、我々の思考を形成してきた。ニール・ポストマンが指摘したように「論理、順序、履歴、注解、客観性、自立性および規律の重要性を強調してきた」一方、我々の新しい汎用媒体であるインターネットは、全く別のことを強調している。インターネットが重視するのは即時性、同時性、偶然性、主観性、廃棄可能性、そしてとりわけ速度である。ネットは何事に関しても、立ち止まって深く思考する動機を与えない。フォアマンが重要視する「知識の濃密な貯蔵庫」を我々の記憶の中に築こうとはしないのである。ケリーが言うように「自分で覚えておくよりも、二〜三回ググる」ほうが簡単なのである。インターネット上では、我々は大急ぎでリンクからリンクへと移動しながら、データのつるつるした表層を滑り回ることを強要されているように思える。
商業システムとしてのインターネットは、こうした行動を促進するように設計されている。我々はウェブのシナプスなのだ。我々がより多くのリンクをクリックして、ページを見て、処理して、それも速ければ速いほど、ウェブはより多くの知的情報を収集して、より多くの経済的価値を獲得して、より多くの利益を生み出す。我々がウェブ上では「パンケーキ人間」になったように感じるのは、それが我々に割り当てられた役割だからだ。ワールドワイドコンピュータと、ワールドワイドコンピュータをプログラムする人々は、フォアマンが言う「厚みがあり、複雑な質感で、密度の濃い、深く醸成された個性」を我々が発揮することにはほとんど関心を持っていない。彼らが我々に求めているのは、極めて効率的なデータ処理装置として動作し、人間の活動や目的をはるかに凌駕する知的機械の歯車となることである。インターネットの能力、範囲および有用性の拡大がもたらした最も革命的な結果は、コンピュータが人間のように考え始めることではなく、我々がコンピュータのように考えることなのだ。リンクを重ねるたびに、我々の頭脳は「"ここ"で見つけたもので"これを行え"、その結果を受けて"あちら"に行く」ように訓練される。その結果、我々の意識は希薄になり、鈍化していくだろう。我々が作っている人工知能が、我々自身の知能になるかもしれないのだ。

村上彩 訳