本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

アーシュラ・K. ル=グウィン「ファンタジーと言葉」

  読むというのは非常に神秘的な行為です。これまでに見ることが読むことの代わりをしたことは絶対に一度たりともありませんし、これからも、どんな種類にせよ、見ることは読むことに取って代わりはしないでしょう。見ることはまったく別な仕事で、その報酬も別の種類のものです。

  読んでいる読者が本を作る、本を意味へと導くのです。恣意的なシンボル、印刷された文字を、内的な、私的な現実へと変換するのです。読むことは行為、創造的な行為です。見ることはこれに比べると受け身です。映画を見ている観客は映画を作りはしません。映画を見るというのは映画のなかに取り込まれること——そのなかに参入すること——映画の一部になることなのです。映画に吸収されるのです。読者は本を食べますが、映画は観客を食べるのです。

  これはすばらしい体験になりえます。いい映画に食べられること、目と耳に導かれて、その映画を見なければ決して知ることのなかった現実へと誘われることは、すばらしいことです。でも、受け身であることは傷つきやすさ、影響されやすさを意味します。そして、メディアによるストーリー・テリングの多くがつけ込むのはここなのです。

  読むことは、テクストと読者の間の能動的なやりとりです。テクストは読者にコントロールされています——とばしたり、停滞したり、解釈したり、戻ったり、考え込んだり、ストーリーの流れに身を任せたり、それを拒んだり、判断したり、判断を修正したりと、読者は真にテクストと相互交流する時間と余裕を持っているのです。一冊の小説は、作家と読者との間の能動的で、同時進行的な共同作業なのです。

 

青木由紀子 訳