本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  長途の飛行によって幾たびか危機に遭遇し、疲労しきった長時間を送ったあとでは、心も身も離れ離れになるように思われるが、やがてそれは、ときには完全に異なる要素でもあるかのように思われることがよくあり、あたかも肉体が心とのつながりはあるが、けっして結びついているものではない一つの家にすぎないようになる。意識はしだいに通常の感覚を離れる。目の助けを借りずとも、目に見える水平線のかなたの距離も見えるのである。ときに存在が心となんの関わりもないかのように思われる瞬間がある。肉体の欲望とその場の環境の重要さが、普遍的価値の理解のなかに沈められるのだ。
  無限の期間、私は自分のからだから分離されたかのようであり、それはあたかも心理学上の一つの意識性と化して、時間や物質に妨げられることなく、人間をこの世の重苦しい人間的問題にしばりつける重力からも解放されて、地上を越えて空間のなかを大空に向かってひろがって行くかのようだった。私の肉体はもう気を配る必要はない。肉体は空腹も感じない。暖かくも寒くもない。何も思い煩うことのない状態に身を任せている。なぜ私はそんなものをここまで苦労して運んだのだ?そのなかに生きるこの重さのない要素が大空をさっと過ぎ、そして遊星を眺めるというなら、私はそれをロング・アイランドかセント・ルイスに置いて来たほうがよかったかもしれない。この本質的意識は旅行に肉体を必要としない。それは飛行機も必要としないし、エンジンも必要としない。また計器も必要としない。必要なのはただ肉体からの解放であり、それは私が通り過ぎた環境が可能にしたのである。
  それなら一体私はなんなのだ——目で見、手で感じることのできる肉体の本質は?それとも私はこの現実化なのだろうか、その内部に宿り、しかも外部の宇宙にひろがる、哲学上のより偉大なる悟性なのだろうか?——無力ではあるが力を必要としないあらゆる存在の一部——孤独に陥りながら、しかもなおあらゆる創造と結ばれているものなのだろうか?二つが切り離せないように見える瞬間、しかもその二つが単なる光の一閃によって切り離されることもありうる瞬間というものがあるのだ。
  手は操縦桿に、足は方向舵に、目は羅針盤につけられているのだが、この意識はあたかも翼を持った使者のように、翼下の波を訪ね、海水の暖かさ、風の速度、中間に介在してじゃまする雲の厚さを調べに出向く。それは北はグリーンランドの極寒の海岸へ、あるいは水平線を越えて夜明けの端へ、あるいは行く手のかなたアイルランドイングランド、そしてヨーロッパ大陸へ、空間を遠く月へ、星へ——そしてそれが出かけているあいだ、果たして手足や筋肉が当てがわれた仕事を、まじめにやっているかどうかを見るための人間的な任務に、心ならずも常に帰ってくる。

 

佐藤亮一 訳