本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  果てしない水平線と無限の水のひろがりを前方に見ながら、私は改めてこんな飛行を企てた私の思い上がりに、いまさらのように驚く。私は陸地を見捨てて、いま、人間によって発明された最ももろい乗物に乗って、海洋へと向かっているのだ。どうして私は、揺れうごく羅針儀の針が私を安全に着陸するまで導くことに、それほど頼らなければならないのだ?なぜ私は、図面に線を引いて方位と距離を計れば、移り変わる空中をヨーロッパまでの道をたどれるのだと信じ込んで、あえて自分の生命を賭けたのだ?どうして私は、セント・ルイス号の機首をあの変化のない果てしない水平線上を目標なしに保ちつつ、ノヴァ・スコシアを発見し、アイルランドを発見し、そして最後に地球上のル・ブールジュという極小地点を発見する確信が持てたのか?

 

  空中を飛ぶ一室、そこが私が生きているところだ。山脈より高い一室、雲と空のなかの一室。幾多の苦労を重ねて、私はここまでたどり着いたのだ。幾月も計画を練り、細心の注意を払って私はこの一部を取りつけたのだ。いま私は、たったひとりでこの見晴らしのよい地点でくつろぐことができる。そして太陽には照らすままにまかせ、西風を吹くにまかせ、やがて夜になれば吹雪になるのにまかせればよい。
  操縦席内の細部が何かと私の意識にのぼってきた——計器類、レバー、構造の角材などが。一つ一つがいまは真価をみせるのだ。私は鋼管の熔接部分を調べる(目に見えない何トンもの応力が通過する冷たい鋼のギザギザの部分)、高度計の表面のラジウムで示す点(その唯一の使命は、セント・ルイス号が海上二千フィートのとき、針はどこをさしていなければならないかを示す)、燃料バルブのバッテリー(私の機と私の生命は、人間の血管を流れる血液のように、バルブをとおして流れる液体のわずかな流れに依存しているのだ)——すべてこれらが——いままでそれほど気にもかけなかったのが——いまははっきりと重要なことがわかる。私は複雑な飛行機を空間を突進して飛ばしているのだが、しかしこの小さな操縦席を取り囲むものはしごく軽便であり、時間から解放されて考えにひたることができる。
  三十時間?なんと不適当な寸法だ!私は三十時間の長さを何千回も過ごしてきたが、こんなものではない。パリまで三十時間! そのあいだには洋々たる大洋があり、越さなければならない永遠のカズムがあるのに、なんと簡単に言ってのけるのだ。だれがこの大空を眺め、連なる山の峰を眺め、膝の上の地図をのぞき、機のうごかない翼を見ながら、なおも時間で刻まれた時というものを考えるなんていうことができるのだ?ここセント・ルイス号の一室では、私は全く時間とは別個のわくのなかで生きているのだ。
  私の周りにある身近なものが、なんと眼下の大きな世界とかけ離れていることか。この近いものと遠いものとの組み合わせの不思議。あの地上——数秒にしてたちまち遠ざかり——やがて数千マイルのかなたに遠ざかる。この空気が、私の周りでやさしくそよいでいるが、一インチ向こうのそこの空気は、旋風の速度で突進している。この操縦席内部のこまかい計器類。外界の一大偉観。死との隣り合わせ。生命の長さ。

佐藤亮一 訳