本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

シュテファン・ツヴァイク 「人類の星の時間」序文

  どんな芸術家もその生活の一日の24時間中絶えまなく芸術家であるのではない。彼の芸術創造において成就する本質的なもの、永続的なものは、霊感によるわずかな、稀な時間の中でのみ実現する。それと同様に、我々があらゆる時間についての最大の詩人と見なし叙述家として感嘆するところの歴史も、決して絶えまなき創造者であるのではない。「神の、神秘に充ちている仕事場」——歴史をゲーテは畏敬をもってそう呼んだが——の中でもまた、取るにたりないことや平凡なことは無数に多く生じている。芸術と生命との中で常にそうであるように歴史の中でもまた、崇高な、忘れがたい瞬間というものは稀である。多くの場合歴史はただ記録者として無差別に、そして根気よく、数千年を通じてのあの巨大な鎖の中に、一つ一つ事実を編み込んでゆく。要するにどんな緊張のためにも準備の時がなければならず、どの出来事の具体化にも、そうなるまでの進展が必要だからである。一つの国民の中に常に無数の人間が存在してこそ、その中から一人の天才が現われ出るのであり、常に無数の坦々たる世界歴史の時間が流れ去るからこそ、やがていつか本当に歴史的な、人類の星の時間というべきひとときが現われ出るのである。

  芸術の中に一つの天才精神が生きると、その精神は多くの時代を超えて生き続ける。世界歴史にもそのような時間が現われ出ると、その時間が数十年、数百年のための決定をする。そんな場合には避雷針の尖端に大気全体の電気が集中するように、多くの事象の、測り知れない充満が、極めて短い瞬時の中に集積される。普通の場合には相次いで、また並んでのんびりと経過することが、一切を確定し、一切を決定するような一瞬時の中に凝縮されるが、こんな瞬間は、ただ一つの肯定、ただ一つの否定、早過ぎた一つのこと、遅過ぎた一つのことを百代の未来に到るまで取返しのできないものにし、そして一個人の生活、一国民の生活を決定するばかりか全人類の運命の経路を決めさえもするのである。

 

片山敏彦 訳