本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「月と六ペンス」

「もちろん奇跡が起こって、あなたが偉大な画家になることもありうるでしょう。しかし、その可能性が百万にひとつだということは、あなたも認めるはずだ。最後になって、一生を台無しにしただけだったとわかるのは、絶望以外のなにものでもないでしょうに」
「ぼくは、描かなければならないんだ」彼は繰り返した。
「どうやっても三流画家にしかなれない、と想像してごらんなさい。それでもすべてを投げ出す価値があると思いますか。つまりですね、他の分野だったら、あなたに能力がなくてもさほど問題ではないんです。ほどほどにやりさえすれば、ごく快適にそれを続けていくことができる。しかし、芸術となると話は別だ」
「君は壊滅的な馬鹿だな」と彼は言い放った。
「明白なことを指摘して、そのどこが馬鹿だと言うんです」
「ぼくは、描かなけりゃならないんだ、と言ってるじゃないか。そうするよりほかないんだ。人が水の中に落ちたら、泳がなきゃならん。うまかろうがまずかろうが、そんなことは関係ない。水から出なければ、溺れちまうんだから」

 

大岡玲 訳