本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

トルストイ「トルストイの言葉」

  他人に対して嘘をつくことは悪いことだ。しかし自分自身に対して嘘をつくことのほうが、それよりもさらに悪い。こうした嘘が特に有害なのは、他人に嘘をつく場合には、それでも他人がその嘘をあばいてくれるが、自分に嘘をつく場合には、誰もその嘘をあばいてくれる者がいないからである。(懺悔)

 

小沼文彦 訳編  

トルストイ「トルストイの言葉」

  人々はいかに話すべきかを学習する。しかし、なによりも大切な学問は、どんな場合にどんなふうにして沈黙をまもるべきかを知ることである。

                                                                                                           (人生の道)

小沼文彦 訳編 

 

トルストイ「トルストイの言葉」

  私たちは、装塡された銃は慎重に扱わなければならないことを知っている。それなのに、言葉も同様に慎重に扱わなければならないことを知ろうとはしない。言葉は、人を殺すことができるばかりではなく、殺人よりももっと仕末のわるい悪をなすこともできるのである。                                (人生の道)

 

小沼文彦 訳編  

トルストイ「トルストイの言葉」

  人間は言葉によって思索する。言葉がなければ思想もない。思想こそは、私個人、そしてまた全人類の生活を動かす原動力である。したがって思想をふまじめに扱うことは、大きな罪である。そして「言葉を殺す」ことは「人間を殺す」ことにも劣らない大罪である。                                              (書簡)

 

小沼文彦 訳編  

トルストイ「トルストイの言葉」

  子供はおとなよりも聡明である。子供は、人間に地位や身分のあることを理解しない。子供は、自分の内部に住んでいる霊と同じ霊が、どの人間の内部にも住んでいることを、心から感じ取るのである。

                                                                                                          (人生の道)

小沼文彦 訳編  

モーム「サミング・アップ」

もしかすると我々は善に、人生の理由や説明ではなく、人生の悪を軽減する役目をしてもらうのかもしれない。このお粗末な宇宙では、我々は揺籠から墓場まで悪に取り囲まれているのだが、善は挑戦でも答えでもなく、我々が独立した存在であるのを確認するのに役立つであろう。善は運命の悲劇的な愚劣さに対するユーモアの仕返しである。善は美と違い、完璧であっても退屈なものとはならない。また、美より勝っているのは、時間が経っても喜びが色褪せぬことだ。

 

行方昭夫 訳  

モーム「サミング・アップ」

  第一に、美は終止符だと分かった。美しいものを見ていると、私はただただ感心して眺めているしかないのだった。それが与えてくれる感動は素晴らしいが、感動は持続しないし、無限に感動を繰り返すことも出来なかった。それで、この世の最高に美しいものも結局私を退屈させた。試作品からならもっと長続きする満足が得られるのに気付いた。完璧な出来ではないので、却って私が想像力を働かせる余地があった。あらゆる芸術作品の中で最高の作品においては、あらゆるものが表現されているので、私が出来ることは何もない。そこで私は落ち着きを失い、受身で眺めているのに飽きてしまう。美は山の頂上のようだと思った。そこまで辿り着いたら、後は下りるしかない。完璧というのはいささか退屈である。誰もが目標としている最高の美は完璧に達成されないほうがいいというのは、人生の皮肉の中でもかなりひどいものだ。

 

行方昭夫 訳  

モーム「サミング・アップ」

真実とはそれほど大袈裟な価値ではなく、個々の存在物について何事かを主張するに過ぎない。ただ事実をそのまま述べるだけである。

 

人間は自分の虚栄心、快適さ、利益のために真実を犠牲にしてきた。人は真実ではなく偽りによって生活している。私は時どき思うのだが、いわゆる理想主義とは、人が自惚れを満足させるために作り出したフィクションに真実の威光を与えようとする努力に過ぎないのではなかろうか。

 

行方昭夫 訳 

モーム「サミング・アップ」

  私はいつも未来に向かって生きてきたので、未来が短くなった今も、その習慣から抜け出せないでいる。そして何年後かははっきり知らぬが、やがて私の目論んだ人生模様が完成するのを平静な気持で待っている。時には衝動的に死にたいという願望を覚えることもあり、その瞬間には愛する人の胸に飛び込んで行くように死にたくなる。かつて生が私に与えたのと同じ強烈なスリルを、今の私に死が与えるのだ。死を思うと、酔い心地になる。そういうときは、死が最後の絶対的な自由を与えてくれるような気がする。それにも拘わらず、医師が私を我慢できる健康状態に保ってくれる間は喜んで生き続けて行こうと思う。世の中の動きを眺めるのが楽しみだし、これから何が起こるかに関心がある。

 

行方昭夫 訳 

モーム「サミング・アップ」

完全な一生——人生模様の完成——のためには、若さ、壮年だけでなく、老年も入れなくてはならないのだ。朝の美、昼の輝きもよいが、夕べの静寂を締め出すためにカーテンを閉め、明かりをつける者がいるとしたら、実に愚かである。老年には楽しみがあり、その楽しみは若い頃の楽しみとは違うけれど、決してそれに劣るものではない。

 

行方昭夫 訳  

モーム「サミング・アップ」

人間というものは誰しも相互に矛盾する複数の分身を束ねた存在かもしれないが、作家、画家は特にそのことに気付いている。一般人の場合は、送っている人生によって分身の一つが支配的なものとなり、意識下での心理を無視すれば、最後には一つの分身が全人格になる。ところが、画家、作家、聖人は常に自分の内奥を覗き込み、新しい分身を探す。同じ自分の繰り返しを嫌い、我知らず、一つの分身にならぬように努力するのである。芸術家が自己矛盾のない、首尾一貫した人間になる機会はない。

 

行方昭夫 訳  

モーム「サミング・アップ」

作家は、他の人もそうだろうが、試行錯誤によって学ぶ。初期の作品は習作であり、作家は様々な主題や様々な手法を試し、同時に自分の性格を涵養するのである。その過程で作家は自己発見をする。発見した自分こそ作品において展開すべきものであり、やがてこの発見を最大限立派に見せる術を学ぶ。それから自分の持てる才能の全てを動員して、可能な限り最上の作品を生み出すのである。書くというのは健康的な職業なので、最高傑作を出した後も多分長生きするであろう。そのときまでには書くことがすっかり身についているので、多分あまり意味のない作品を書き続けるであろう。こういう作品を読者は当然無視してよい。読者の立場からすれば、作家が生涯にわたって生み出すもののうちで、必要欠くべからざるものはごく僅かである。

 

行方昭夫 訳 

モーム「サミング・アップ」

  その一方、二度読んだ本はほとんどない。一度読んだだけでは全てを味わえない書物がたくさんあるのは知っているが、一度読んだときに吸収できるものは全て吸収したのであり、それこそが、たとえ細部は忘れても永遠の財産として自分に残るのだ。世の中には同じ本を繰り返し読む人もいる。こういう連中は目で読むに過ぎないのであって、感性は用いているはずがない。機械的な読み方で、チベット人が祈り車を回しているようなものだ。むろん、無害な作業であるが、知的な作業だと思うのは誤解というものである。

 

行方昭夫 訳

モーム著「人間の絆」の中に、同じ本を繰り返し読む友人に対して、それはひどく手の込んだ怠慢だ、と批判する人物が登場する。