本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ミヒャエル・エンデ「遠い旅路の目的地」

「そうして、人はなんでも見つけた。太古の怪獣や獣人の骨なども——なぜだと思いなさる。それをさがしたからじゃ。そうしてこの世界全体を造り上げた。少しずつ造り上げたのじゃ。そして人は、神が世界を造りたもうた、と言っている。しかし、この世界がどんな具合か見てごらんなされ。ごまかしや矛盾がひしめき、酷いことや暴力であふれ、強欲や、大小の、意味もない苦しみでいっぱいじゃ。そこでおまえさまに尋ねるが、公正で崇高だと人の言う神が、どうしてこのような不完全なものを、造りたもうたのじゃ?人間こそが創造主なのだが、人はそれを知らぬ。知りたくもないのじゃろう。自分で自分がおそろしいからな。」

 

田村都志夫 訳  

ミヒャエル・エンデ「遠い旅路の目的地」

「そうして、人はなんでも見つけた。太古の怪獣や獣人の骨なども——なぜだと思いなさる。それをさがしたからじゃ。そうしてこの世界全体を造り上げた。少しずつ造り上げたのじゃ。そして人は、神が世界を造りたもうた、と言っている。しかし、この世界がどんな具合か見てごらんなされ。ごまかしや矛盾がひしめき、酷いことや暴力であふれ、強欲や、大小の、意味もない苦しみでいっぱいじゃ。そこでおまえさまに尋ねるが、公正で崇高だと人の言う神が、どうしてこのような不完全なものを、造りたもうたのじゃ?人間こそが創造主なのだが、人はそれを知らぬ。知りたくもないのじゃろう。自分で自分がおそろしいからな。」

 

田村都志夫 訳   

ミヒャエル・エンデ「自由の牢獄」

「生まれてからこれまでというもの、おまえはあれやこれやと決めたときに、理由があると信じていた。しかし、真実のところ、おまえが期待することが本当に起こるかどうかは、一度たりとも予見できなかったのだ。おまえの理由というのは夢か幻想にすぎなかった。あたかも、これらの扉に絵が描かれていて、それがまやかしの指標としておまえをだますようなものだ。人間は盲目だ。人間がなすことは、暗闇の中へとなすのだ。ある者は結婚を祝い、2日後にはすでにやもめになることを知らぬ。またある者は苦悩と苦難がゆえに首をくくろうとするが、富をもたらす知らせがもうすぐ届くことを知らぬ。さらに、ある者は刺客から逃れるため、孤島に渡り、あろうことか、そこでその刺客とばったり出会うのだ。」

 

田村都志夫 訳  

リルケ「若き詩人への手紙」

一つの芸術作品に接するのに、批評的言辞をもってするほど不当なことはありません。それは必ずや、多かれ少なかれ結構な誤解に終るだけのことです。物事はすべてそんなに容易に摑めるものでも言えるものでもありません、ともすれば世人はそのように思い込ませたがるものですけれども。たいていの出来事口に出して言えないものです、全然言葉などの踏み込んだことのない領域で行われるものです。それにまた芸術作品ほど言語に絶したものはありません、それは秘密に満ちた存在で、その生命は、過ぎ去る我々のそばにあって、永続するものなのです。

 

高安国世 訳  

リルケ「若き詩人への手紙」

必然から生まれる時に、芸術作品はよいのです。こういう起源のあり方の中にこそ、芸術作品に対する判断はあるのであって、それ以外の判断は存在しないのです。だから私があなたにお勧めできることはこれだけです、自らの内へお入りなさい。そしてあなたの生命が湧き出てくるところの深い底をおさぐりなさい。その源泉にのみあなたは、あなたが創作せずにいられないかどうかの答えを見いだされるでしょう。その響きを、あるがままにお受取り下さい、その意味を明かそうとしてはなりません。おそらくあなたが芸術家になる使命を持っていらっしゃることがわかるでしょう。そうなれば、あなたはその運命を自分にお引受けなさい、そしてそれを、その重荷とその偉大さをになって下さい、決して外からくるかも知れない報酬のことを問題になさってはなりません。なぜなら、創造するものはそれ自身一つの世界でなくてはならず、自らのうちに、また自らが随順したところの自然のうちに、一切を見いださねばならないからです。

 

高安国世 訳  

リルケ「若き詩人への手紙」

あなたの御判断に、それ自身の静かな、乱されない発展をお与えになって下さい。それはすべての進歩と同じように、深い内部からこなければならぬものであり、何物によっても強制されたり、促進されたりできるものではありません。月満ちるまで持ちこたえ、それから生む、これがすべてです。すべての印象、すべての感情の萌芽は、全く自己自身の内部で、幽暗の境で、名状しがたいところで、無意識のうちに、自己の悟性の到達し得ないところで、安全に発育させるようにし、深い謙虚さと忍耐とをもってあらたな明澄さの生れ出るのを待ち受ける、これのみが芸術家の生活と呼ばれるべきものです、理解においても創作においても。
そこでは時間で量るということは成り立ちません。年月は何の意味をも持ちません。そして十年も無に等しいのです。およそ芸術家であることは、計量したり数えたりしないということです。その樹液の流れを無理に追い立てることなく、春の嵐の中に悠々と立って、そのあとに夏がくるかどうかなどという危惧をいだくことのない樹木のように成熟すること。結局夏はくるのです。だが夏は、永遠が何の憂えもなく、静かにひろびろと眼前に横たわっているかのように待つ辛抱強い者にのみくるのです。

 

高安国世 訳  

リルケ「若き詩人への手紙」

孤独が大きなものであることに気づかれたならば、それをお喜び下さい。なぜなら(そうあなたは自問なさって下さい)偉大さを持たない孤独とは何ものであろうか、と。孤独はただ一つあるきりで、それは偉大で、容易ににない得られないものです。そしてほとんどすべての人にとって、その孤独をできるものならなんらかの、どんな月並みな安価な付合いとでもいいから交換したいと望むような時期がくるものです……しかしそれこそおそらく孤独が成長する時なのです。 なぜなら、その成長は少年のように苦痛を伴い、春の初めのようにものがなしいものです。しかしそれであなたがまどわされてはなりません。必要なことはしかし結局これだけです、孤独、偉大な内面的孤独。自己自身の中へはいり、何時間も誰にも会わないこと、——これは誰にも成し遂げ得るはずのものです。子供の時、大人の人がさも大事そうな、大へんなことのように見える物事に——しかしそれは大人が忙しそうに見え、子供は大人のすることを何一つ理解することができなかったからにすぎないのですが——かかわり合って右往左往する時に、孤独であったような、そのような孤独。

 

高安国世 訳  

リルケ「若き詩人への手紙」

  それから再び孤独についてお話ししますと、人が選んだり、手放したりすることのできるものは、本当のところつまらないものだということが、ますます明らかになってきます。私たちは孤独なのです。それをごまかして、あたかもそうでないかのように振舞うこともできます。しかしそれだけです。それに引きかえ、私たちが孤独であることを明察し、いや、むしろそこから出発する方がどれだけよいことか知れません。めまいを覚えるということも、もちろんあるかも知れません。なぜなら、私たちがふだんそこに眼を休ませていたすべての点が私たちから奪い去られ、もう近くには何もなく、遠くのものは無限に遠いのですから。

 

高安国世 訳  

リルケ「若き詩人への手紙」

私たちに出あうかも知れぬ、最も奇妙なもの、奇異なもの、解き明かすことのできないものに対して勇気を持つこと。人間がこれまで、こういう意味において臆病であったことが、生に対して数限りない禍をもたらしたのです。「幻影」と呼ばれる体験や、いわゆる「霊界」なるものの一切や、死など、すべて私たちに非常に身近なこれらのものは、日ごとあまりにも私たちの感覚が萎縮してしまっています。神のことはさておきとしてです。しかし解き明かしのできないものを恐怖することが、個々の人間の存在を貧弱なものにしたばかりでなく、それによってまた、人間の人間に対する関係も狭いものにされ、いわば無限の可能性の河床から、何物も生じることのない不毛の岸べへすくい上げられてしまっています。というのは、人間関係が言うにも堪えないほど単調に、旧態依然として、一つの場合から場合へと繰返されるのは、怠惰のせいばかりではありません、それは新しい、見きわめのつかない体験に対して、何でもはじめからかなわないと思い込んでいるその恐れのせいもあるのです。しかし何物に対しても覚悟のある者、何物をも、たとえどんなに不可解なものをも拒まない者だけが、他の人間に対する関係を生き生きとしたものとして生きることができ、自らも独自の存在を残りなく汲み味わうことができるでしょう。

 

高安国世 訳  

 

リルケ「若き女性への手紙」

芸術作品に、人を助けることができようなどと、期待することはむしろ思いあがりというものでしょう。しかし一つの芸術作品が自らの中に持ち、それを外へ用いようとしないで、ただ単にそこに存在することによって、あたかもそれが努力であり、要求であり、求愛——魂を奪い去るような求愛であり、激動であり、招請であるかのような錯覚を起こさせるのは、これこそ芸術というものの良心(その職分ではなく)であります——、そして芸術品と孤独な人間とのあいだのこの欺瞞は、創世このかた、神的なものがそれによって促進されてきた、あの僧侶の用いる欺瞞と等しいものです。

 

高安国世 訳  

ハイゼ (リルケ「若き詩人への手紙 若き女性への手紙」訳者後記より)

それから私は海を見ました。幾度も幾度も行って見ました。私はそれを自分のものにしたい、どうにかして自分の一部にしたいとあせりました。しかしそれは私には入り込むすきを見せませんでした。自己自身に満ち、自己自身を相手にしているこの存在には、入り込む余地がないのでした。そしてその無関心に打ちかつすべは、少しも見つからないのでした。遠くは近く、近くは捉えがたく、捉えがたいものは単純に見えました。旅人の私には、の輪郭によって、はっきりと境界線が引かれているのでした。そして私には、自分が侵入者のように思えてくるのでした。でも私の生活の中に、何かしら新しいものがはいってまいりました。そこを離れて、もう久しくなるのに、私の眼はいまだにあの広漠とした無限世界をありありと感じています。

 

高安国世 訳  

バルザック「ゴリオ爺さん」

おそらくある種の連中は、いっしょに暮らしている人びとからはもはやなにものも得ることができないのだ。自分たちの魂の空虚をすっかりさらけ出してしまったあとで、彼らは自分たちが、当然の厳しさでもって批判されていることをひそかに感じている。けれども、彼らは、だれからも言ってもらえないお世辞をなんとかし聞きたくてたまらず、あるいはまた自分たちにはない美点をあたかも具えているかのように見せたくてたまらないのだ。それで、彼らは見知らぬ他人の敬意や愛情を、いつかそれを失うことはわかっているのになんとかしてかすめとろうとする。それからまた生まれつき打算的な人間もいる。こういう手合いは、友人や親類にはなにひとつ親切にしようとしないが、それはそんなことをしても当然の義務と見なされるだけだからである。赤の他人に親切にしてやれば、彼らは自尊心の満足を得ることができるのだ。こうした連中は、自分たちのまわりの愛情の輪が狭ければ狭いほど、かえって冷淡になる。そして輪が遠くにひろがればひろがるほど、いっそう世話ずきになるのだ。

 

高山鉄男 訳  

バルザック「ゴリオ爺さん」

「パリではいったいどうやって、みんなおのが道を切りひらくのか、きみは知っているかね。天才の輝きか、さもなければ上手に堕落することによってなのさ。人間のこの巨大なかたまりのなかにはいっていくには、大砲の弾丸みたいにぶつかっていくか、さもなけりゃあペスト菌みたいにこっそり忍びこむしかないんだな。正直なんてものはなんの役にもたちはせん。世間は天才の力には屈服するが、しかし天才を憎み、それを誹謗するものだ。なにしろ天才は、分け前を分配もしないで自分で一人占めにしちまうからな。しかし天才がもしもあくまで頑張るなら世間は屈服する、つまりひと言でいえば、世間は、天才を泥の下に埋めさせることができない場合には、ひざまずいて崇拝するのさ。堕落はいたるところに幅をきかせているが、才能はまれだ。こういうわけで堕落は、むらがりあふれるぼんくらどもの武器なんだ。」

 

高山鉄男 訳   

バルザック「ゴリオ爺さん」

「ご馳走を食べたければ手を汚すしかない。ただあとでその手を洗っておくのだけは覚えておくことだ。現代の道徳とはつまりそれなんだから。わしが世間のことをこんなふうに語るのも、世間がわしにその権利をあたえたから、つまりわしが世間を知っているからだ。わしが世間を非難しているとでもきみは思うかね。とんでもない。世間は昔からこうだったのだ。道徳家先生どもには世間は変えられまい。人間は不完全だからだ。人間はときに応じて多少とも偽善的なものだ。それをばかな連中が、あのひとは真面目だとか、不真面目だとか言うのさ。わしは金持を非難して貧乏人に同情しようとは思わんね。人間は上でも下でもまんなかでも、いずれ似たりよったりなものだからな。」

 

高山鉄男 訳