本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

リルケ「若き詩人への手紙」

  それから再び孤独についてお話ししますと、人が選んだり、手放したりすることのできるものは、本当のところつまらないものだということが、ますます明らかになってきます。私たちは孤独なのです。それをごまかして、あたかもそうでないかのように振舞うこともできます。しかしそれだけです。それに引きかえ、私たちが孤独であることを明察し、いや、むしろそこから出発する方がどれだけよいことか知れません。めまいを覚えるということも、もちろんあるかも知れません。なぜなら、私たちがふだんそこに眼を休ませていたすべての点が私たちから奪い去られ、もう近くには何もなく、遠くのものは無限に遠いのですから。

 

高安国世 訳  

リルケ「若き詩人への手紙」

私たちに出あうかも知れぬ、最も奇妙なもの、奇異なもの、解き明かすことのできないものに対して勇気を持つこと。人間がこれまで、こういう意味において臆病であったことが、生に対して数限りない禍をもたらしたのです。「幻影」と呼ばれる体験や、いわゆる「霊界」なるものの一切や、死など、すべて私たちに非常に身近なこれらのものは、日ごとあまりにも私たちの感覚が萎縮してしまっています。神のことはさておきとしてです。しかし解き明かしのできないものを恐怖することが、個々の人間の存在を貧弱なものにしたばかりでなく、それによってまた、人間の人間に対する関係も狭いものにされ、いわば無限の可能性の河床から、何物も生じることのない不毛の岸べへすくい上げられてしまっています。というのは、人間関係が言うにも堪えないほど単調に、旧態依然として、一つの場合から場合へと繰返されるのは、怠惰のせいばかりではありません、それは新しい、見きわめのつかない体験に対して、何でもはじめからかなわないと思い込んでいるその恐れのせいもあるのです。しかし何物に対しても覚悟のある者、何物をも、たとえどんなに不可解なものをも拒まない者だけが、他の人間に対する関係を生き生きとしたものとして生きることができ、自らも独自の存在を残りなく汲み味わうことができるでしょう。

 

高安国世 訳  

 

リルケ「若き女性への手紙」

芸術作品に、人を助けることができようなどと、期待することはむしろ思いあがりというものでしょう。しかし一つの芸術作品が自らの中に持ち、それを外へ用いようとしないで、ただ単にそこに存在することによって、あたかもそれが努力であり、要求であり、求愛——魂を奪い去るような求愛であり、激動であり、招請であるかのような錯覚を起こさせるのは、これこそ芸術というものの良心(その職分ではなく)であります——、そして芸術品と孤独な人間とのあいだのこの欺瞞は、創世このかた、神的なものがそれによって促進されてきた、あの僧侶の用いる欺瞞と等しいものです。

 

高安国世 訳  

ハイゼ (リルケ「若き詩人への手紙 若き女性への手紙」訳者後記より)

それから私は海を見ました。幾度も幾度も行って見ました。私はそれを自分のものにしたい、どうにかして自分の一部にしたいとあせりました。しかしそれは私には入り込むすきを見せませんでした。自己自身に満ち、自己自身を相手にしているこの存在には、入り込む余地がないのでした。そしてその無関心に打ちかつすべは、少しも見つからないのでした。遠くは近く、近くは捉えがたく、捉えがたいものは単純に見えました。旅人の私には、の輪郭によって、はっきりと境界線が引かれているのでした。そして私には、自分が侵入者のように思えてくるのでした。でも私の生活の中に、何かしら新しいものがはいってまいりました。そこを離れて、もう久しくなるのに、私の眼はいまだにあの広漠とした無限世界をありありと感じています。

 

高安国世 訳  

バルザック「ゴリオ爺さん」

おそらくある種の連中は、いっしょに暮らしている人びとからはもはやなにものも得ることができないのだ。自分たちの魂の空虚をすっかりさらけ出してしまったあとで、彼らは自分たちが、当然の厳しさでもって批判されていることをひそかに感じている。けれども、彼らは、だれからも言ってもらえないお世辞をなんとかし聞きたくてたまらず、あるいはまた自分たちにはない美点をあたかも具えているかのように見せたくてたまらないのだ。それで、彼らは見知らぬ他人の敬意や愛情を、いつかそれを失うことはわかっているのになんとかしてかすめとろうとする。それからまた生まれつき打算的な人間もいる。こういう手合いは、友人や親類にはなにひとつ親切にしようとしないが、それはそんなことをしても当然の義務と見なされるだけだからである。赤の他人に親切にしてやれば、彼らは自尊心の満足を得ることができるのだ。こうした連中は、自分たちのまわりの愛情の輪が狭ければ狭いほど、かえって冷淡になる。そして輪が遠くにひろがればひろがるほど、いっそう世話ずきになるのだ。

 

高山鉄男 訳  

バルザック「ゴリオ爺さん」

「パリではいったいどうやって、みんなおのが道を切りひらくのか、きみは知っているかね。天才の輝きか、さもなければ上手に堕落することによってなのさ。人間のこの巨大なかたまりのなかにはいっていくには、大砲の弾丸みたいにぶつかっていくか、さもなけりゃあペスト菌みたいにこっそり忍びこむしかないんだな。正直なんてものはなんの役にもたちはせん。世間は天才の力には屈服するが、しかし天才を憎み、それを誹謗するものだ。なにしろ天才は、分け前を分配もしないで自分で一人占めにしちまうからな。しかし天才がもしもあくまで頑張るなら世間は屈服する、つまりひと言でいえば、世間は、天才を泥の下に埋めさせることができない場合には、ひざまずいて崇拝するのさ。堕落はいたるところに幅をきかせているが、才能はまれだ。こういうわけで堕落は、むらがりあふれるぼんくらどもの武器なんだ。」

 

高山鉄男 訳   

バルザック「ゴリオ爺さん」

「ご馳走を食べたければ手を汚すしかない。ただあとでその手を洗っておくのだけは覚えておくことだ。現代の道徳とはつまりそれなんだから。わしが世間のことをこんなふうに語るのも、世間がわしにその権利をあたえたから、つまりわしが世間を知っているからだ。わしが世間を非難しているとでもきみは思うかね。とんでもない。世間は昔からこうだったのだ。道徳家先生どもには世間は変えられまい。人間は不完全だからだ。人間はときに応じて多少とも偽善的なものだ。それをばかな連中が、あのひとは真面目だとか、不真面目だとか言うのさ。わしは金持を非難して貧乏人に同情しようとは思わんね。人間は上でも下でもまんなかでも、いずれ似たりよったりなものだからな。」

 

高山鉄男 訳  

バルザック「ゴリオ爺さん」

「人間の感情なんて広い環のなかでだろうと、小さな円のなかでだろうと、おなじように充分に満足させられるものだからね。・・・人間の幸福なんて、どっちみち足の裏から後頭部までのあいだの話だ。」

 

高山鉄男 訳  

バルザック「ゴリオ爺さん」

青年というものはだれでも一定の法則にしたがって生きるものだ。その法則は一見不可解のように見えるが、じつは若さそれ自体や、青年たちが快楽に向かって突進する狂熱的な激しさに由来するものにほかならない。貧富を問わず、青年は、生活に必要な金にはいつも事欠いているくせに、遊びのための金ならいつだって持っている。掛けで買えるものにはいたって気前がいいが、現金払いのものにはひどくけちけちしている。まるで、手に入れうるものを無駄に費やすことによって、手に入らないものへの復讐をしているように見える。

 

高山鉄男 訳   

バルザック「ゴリオ爺さん」

世間というものが、一度足をつっこむと首までつかってしまう泥沼のようなものに、彼の目には見えていた。「けちくさい罪ばかりが行われているんだ」と、ウージェーヌは思った。「そこへいくとヴォートランはたいしたものだ」ウージェーヌは〈服従〉と〈闘争〉と〈反抗〉のなかに、社会の三つの大きな表現を見た。すなわちそれは、〈家族〉と〈世間〉と〈ヴォートラン〉だったが、彼はどれを選択すべきか心を決しかねていた。〈服従〉は退屈であり、〈反抗〉は不可能、そして〈闘争〉は不安定だった。

 

高山鉄男 訳  
*ヴォートラン→同じ下宿に暮らしていた徒刑囚   

バルザック「ゴリオ爺さん」

「子供ってのはどんなものか、死んでみなけりゃわかりはせんのじゃ。ああ、ウージェーヌさん、結婚なんかするものじゃない、子供なんか、もつもんじゃないな。子供たちには命を与えてやっても、お返しには死をくれてよこす。この世に命を受けさせてやったのに、この世からこっちを追い出そうとする。いや、いや、あの子たちは来ませんじゃろう。わしには十年もまえからそれがわかっておった。ときどきはそう思ったのだが、まさかそれを信ずる勇気がわしにはなかった」

 

高山鉄男 訳    

サマセット・モーム「月と六ペンス」

  ストリックランド夫人は、生まれつき同情心に満ち溢れていた。この種の性質は魅力的ではある。が、人は、自分に同情心があるのだと気づくと、ついつい過剰にそれを使ってしまうものでもある。
  なぜそんな言い方をするかといえば、彼らが友人の不幸に対して、手際のよさを見せつけようとやっきになるありさまが、屍をあさる鬼が飢えと渇きを満たそうとしている様子に似ているからなのだ。
  同情が油田のように噴出し、とめどもなく降り注ぐので、時としてその犠牲者は迷惑に感じさえする。そんなにも涙を降り注いでもらった心に、私ごときがさらに同情して何になると思わせるのだ。

 

大岡玲 訳   

サマセット・モーム「月と六ペンス」

「もちろん奇跡が起こって、あなたが偉大な画家になることもありうるでしょう。しかし、その可能性が百万にひとつだということは、あなたも認めるはずだ。最後になって、一生を台無しにしただけだったとわかるのは、絶望以外のなにものでもないでしょうに」
「ぼくは、描かなければならないんだ」彼は繰り返した。
「どうやっても三流画家にしかなれない、と想像してごらんなさい。それでもすべてを投げ出す価値があると思いますか。つまりですね、他の分野だったら、あなたに能力がなくてもさほど問題ではないんです。ほどほどにやりさえすれば、ごく快適にそれを続けていくことができる。しかし、芸術となると話は別だ」
「君は壊滅的な馬鹿だな」と彼は言い放った。
「明白なことを指摘して、そのどこが馬鹿だと言うんです」
「ぼくは、描かなけりゃならないんだ、と言ってるじゃないか。そうするよりほかないんだ。人が水の中に落ちたら、泳がなきゃならん。うまかろうがまずかろうが、そんなことは関係ない。水から出なければ、溺れちまうんだから」

 

大岡玲 訳