本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

角幡唯介「漂流」第1章

  最初は話すのが面倒なので、私を体よく追っ払うために忘れたと言っているのかと思っていたが、しかしあまりにそれがつづくので、途中からは、もしかしたらこの人たちは本当におぼえていないのではないかと考えざるをえなくなった。もしかしたら彼らの時間感覚は狩猟採集民のそれに近いのかもしれないと私は思った。よくよく考えると漁師というのも狩猟採集民みたいなものである。漁は基本的には出てみなければわからない。獲物を探して海を動きまわり、大漁するときはたくさん釣れるが、釣れないときは坊主に近いという、そういう世界だ。それにくわえて遭難や行方不明が頻繁におきる、死におびやかされた日常のなかで彼らは生活をいとなまなければならない。明日は死ぬ身かもしれないのでカネを貯蓄するという発想が生まれにくく、したがって町にもどってきたら盛大に散財する。カネがなくなったら海に出ればいいだけの話である。彼らにとって重要なのは今、現在という直接的な経験であり、未来や過去は意味がないことだ。だから、現在から消えた人間やその思い出にしばられることもないし、おぼえておく必要もない。そういうことなのかもしれない。