本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第1章

  ポイントは、オートメーションは悪いものだということではない。オートメーションと、その先駆者である機械化は、何世紀にもわたって前進してきたのであり、その結果われわれの状況は、全般的に大きく改善されてきた。オートメーションは賢く使えば、われわれを骨の折れる労働から解放し、もっとやりがいと充足感のある試みへと駆り立ててくれる。問題は、オートメーションについて合理的に考えたり、その意味を理解したりするのが 難しいことだ。「もういい」とか「ちょっと待って」とか言うタイミングがいつであるかがわれわれにはわからない。経済的にも感情的にも、カードはオートメーションに有利なように切られている。労働を、人間から機械やコンピュータへと移管することの恩恵は、見出すのも測定するのも簡単だ。企業は資本投資を数多く行い、オートメーションによる恩恵を、国際決済通貨単位で計算できる——労働コストの削減、生産性の向上、処理と反応速度の高速化、利潤の増大。個人の生活においても、コンピュータが時間を節約し、面倒を避けてくれる例を数多く指摘できる。そして労働よりも余暇を、努力よりも快楽さを好む先入観のおかげで、われわれはオートメーションの恩恵を過大評価している。
  損害を明確に指摘するのは難しい。コンピュータが特定の仕事を時代遅れにしていること、それで仕事を失った人々もいることはわかっているが、歴史が示唆するところによれば、およびほとんどの経済学者が予想するところによれば、雇用減少は一時的なものであり、長期的には、生産性を高めるテクノロジーが魅力的な新職業を作り出し、生活水準を引き上げるだろうということだ。個人の損害についてはさらに曖昧だ。努力や没頭の減少や、主体性と自律性の弱体化、スキルの微妙な低下を、どう測定できるというのか?できはしない。それらははっきりとせずつかみどころのない、失くしてしまうまでほとんど気づかれないものであって、またそうなってしまってもなお、喪失を具体的に語るのが困難なたぐいのものである。だが損害は現実だ。どのタスクをコンピュータに手渡し、どれを自分たちの元に置いておくかについて、われわれが行なった選択、または行なわなかった選択は、単なる実際的・経済的な選択ではない。倫理的選択なのだ。われわれの生活の本質を、および世界のなかでのわれわれの居場所を、これらの選択はかたちづくっている。オートメーションはわれわれを、あらゆる問いのなかでも最も重要な問いと直面させる——すなわち、「人間」とは何を意味するのか、という問いだ。

篠儀直子 訳