本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

スベトラーナ・アレクシエービッチ 「チェルノブイリの祈り」第3章

  農村の人たちがいちばんきのどくです。なんの罪もないのに苦しんでいる、子どものように。チェルノブイリを考えだしたのはお百姓じゃない、彼らは自分たちなりに自然とかかわってきたんですから。それは100年も1000年も昔そのままの、信頼に満ちたもちつもたれつの関係なんです。神が意図された通りの。だから、彼らはなにが起きたか理解できず、学者や教育のある者を信じようとしたのです、司祭を信じるように。ところが、くり返し聞かされたのは「すべて順調だ。恐ろしいことはなにもない。ただ食事のまえには手を洗うように」。私はすぐにはわからなかった、何年かたってわかったんです。犯罪や、陰謀に手をかしていたのは私たち全員なのだということが。

   ひとりひとりが自分を正当化し、なにかしらいいわけを思いつく。私も経験しました。そもそも、私はわかったんです。実生活のなかで、恐ろしいことは静かにさりげなく起きるということが。

 

松本妙子 訳  

スベトラーナ・アレクシエービッチ 「チェルノブイリの祈り」第3章

  最初の数日、いろんな感情が混じりあっていました。いちばん強かった二つの感情を覚えています。恐怖といらだちです。すべては起こってしまったのに、情報はいっさいありませんでした。政府は沈黙し、医者はひとことも語ろうとしません。地区では州からの指示を持ち、州ではミンスクから、ミンスクではモスクワからの指示を待っていたのです。長い長い鎖。その先端ですべてを決定していたのは数人の人間です。私たちは身を守るすべがなかったのです。こういうことを当時いちばん強く感じていました。私たちの運命、何百万人もの運命を決めようとしていたのはほんの数人の人間なんです。またほんの数人の人間が私たちを殺すかもしれなかったのです。偏執狂でも、犯罪者でもない、原発のごくふつうの当直運転員が。それがわかったとき、私は非常にショックを受けました。チェルノブイリは、奈落への扉を開けたのです。コリマ〔強制収容所があるシベリアの地区の名〕よりも、アウシュビッツよりも、ホロコーストよりもはるかに深い、奈落への扉を。斧や弓を手にした人間も、てき弾筒やガス室を手にした人間も、私たちを皆殺しにすることはできませんでした。しかし原子力を手にした人間なら……。

 

松本妙子 訳    

スベトラーナ・アレクシエービッチ 「チェルノブイリの祈り」第3章

  核戦争にそなえての通達には、核事故、核攻撃のおそれがあるときにはただちに住民に対してヨウ素剤処置をとるように指示されています。おそれがあるときだって?当時、毎時3000マイクロレントゲンもあったのに。連中が心配しているのは住民のことじゃない、政府のことです。政府の国であって、住民の国じゃないのです。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しいのです。方法はあったんですよ。公表せず、パニックを起こさずとも、飲料水を引いている貯水池にヨウ素剤を入れたり、牛乳に加えるだけでよかったんです。まあ、水や牛乳の味がちょっと変だと感じるかもしれませんがね。ミンスクには700キログラムのヨウ素剤が用意されていたが、倉庫に眠ったままでした。上の怒りを買うことのほうが、原子炉よりもこわかったんです。だれもかれもが電話や命令を待つだけで、自分ではなにもやろうとしませんでした。

 

松本妙子 訳  

エマニュエル・トッド 「問題は英国ではない、EUなのだ」

  なぜ知的なエラーが起きるのか?いきなり「人間とは何か?」と自問して、観念から出発するから歴史を見誤ってしまうのです。そうではなく、まず無心で歴史を見る。すると、むしろ歴史の方が「人間とは何か?」という問いに答えてくれます。何よりも歴史を観察することが大事です。私自身も、学生の頃から数えれば、歴史の研究を40年、50年と続けてきたわけですが、こうした長い歴史観察の果てに、ようやく「人間とは何か?」という問いの答えが出せるようになるのだと思います。何十億もの人類がどう生きてきたか、どう活動してきたか、その多種多様なあり方を虚心坦懐に観察して初めて、「人間とは何か?」についての何らかの一般命題に到達するのではないでしょうか?

 

堀茂樹 訳    

エマニュエル・トッド 「問題は英国ではない、EUなのだ」

  価値観の伝達の問題に戻りますが、私も当初は、親が子供に教え込むことを通して価値が伝達されるという精神分析学的モデルに則っていました。子供の無意識の中にハンマーで叩き込まれるような「強い価値」によって価値の伝達が維持される、と考えていたのです。しかし、学校、街、近所、企業など、家族よりも広い環境で、漠然とした軽い模倣プロセスによって再生産される「弱い価値」の伝達の方が、実は重要だったのです。たとえば、学校や地域社会の影響に抗して家族内だけで子供を教育しようとしても、その試みは初めから失敗する運命にあるのです。
  ここでの逆説は、「弱い価値」の伝達によって強いシステムが維持される、というところにあります。「場所の記憶」とは、この逆説にほかなりません。
  もし人々が「強い価値」を抱いているのなら、その人がどこに住もうともその価値観が維持されるはずですが、そうなってはいません。人々が抱いている価値観は実はそれほど強固ではないのです。人々の価値観がそれほど強固ではないからこそ、言い換えれば、人間が可塑的な存在だからこそ、場所ごとの価値観が永続化するのです。人が移住すれば、次第にその場所の新たな価値観を受け入れていくのです。
「場所の記憶」は、われわれを解放してくれる概念です。この概念によれば、人間をある不変の本質に閉じ込めることなしに、地域文化や国民文化の永続性を捉えられます。また、この概念は、「家族システム」という概念と矛盾するどころか、むしろそれを補完します。

 

堀茂樹 訳    

エマニュエル・トッド 「問題は英国ではない、EUなのだ」

  こうして、好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかいったア・プリオリな思い入れから自由な観察者でいるとき、表面的には複雑きわまる歴史的現実の中に非常に単純な一種の法則のようなものが見えてくることがあるのです。
  私がこれは実際そうに違いないと見抜いた気がしたのは、「集団的な信仰としての宗教という現象が消失してしばらくすると大きな危機が到来し、極端なイデオロギーが生まれてくる」ということでした。そのイデオロギーは、もはやいわゆる宗教ではなく、世俗的なもの、しばしば国粋主義的なものですが、巨大な集団を動かす力を持っています。しかも、この現象はかなり自動的に、その時々の経済的状況と無関係に起こるのです。今日人々は大きな世界的危機をしばしば経済だけで説明しようとする傾向がありますが、私の見方はそれとは違うわけです。

 

堀茂樹 訳  

パスカル 「パンセ」ブランシュヴィック版 72

我々の感覚は、極端なものは何も認めない。あまりに大きい音は、我々をつんぼにする。あまりに強い光は、目をくらます。あまり遠くても、あまり近くても、見ることを妨げる。・・・すなわち、両極端な現象は、我々にとっては、あたかもそれが存在していないのと同じであり、我々もそれらに対しては存在していない。

 

前田陽一 責任編集  

パスカル 「パンセ」ブランシュヴィック版 72

このように全ての事象は、引きおこされ引きおこし、助けられ助け、間接し直接するのであり、そして全てのものは、最も遠く、最も異なるものをもつなぐ、自然で感知されないきずなによって支えあっているので、全体を知らないで各部分を知ることは、個別的に各部分を知らないで全体を知ることと同様に不可能であると、私は思う。

 

前田陽一 責任編集  

パスカル 「パンセ」ブランシュヴィック版 135

人は、いくつかの障害と戦うことによって安息を求める。そして、もしそれらを乗り越えると、安息は、それが生み出す倦怠のために堪えがたくなるので、そこから出て、激動を請い求めなければならなくなる。なぜなら、人は今ある悲惨のことを考えるか、我々を脅かしている悲惨のことを考えるかのどちらかであるからである。そして、かりにあらゆる方面に対して十分保護されているように見えたところで倦怠が自分勝手に、それが自然に根を張っている心の底から出てきて、その毒で精神を満たさないではおかないであろう。

 

前田陽一 責任編集  

パスカル 「パンセ」ブランシュヴィック版 152

  好奇心は、虚栄にすぎない。たいていの場合、人が知ろうとするのは、それを話すためでしかない。さもなければ、人は航海などしないだろう。それについて決して何も話さず、ただ見る楽しみだけのためで、それを人に伝える希望がないのだから。

 

前田陽一 責任編集  

パスカル 「パンセ」ブランシュヴィック版 172

  我々は現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決して我々の目的ではない。過去と現在とは、我々の手段であり、ただ未来だけが我々の目的である。このようにして我々は、決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、我々は幸福になる準備ばかりいつまでもしているので現に幸福になることなどできなくても、いたしかたがないわけである。

 

前田陽一 責任編集    

パスカル 「パンセ」ブランシュヴィック版 404

  人間の最大の卑しさは、名誉の追求にある。だが、それがまさに人間の優秀さの最大のしるしである。なぜなら、地上にどんな所有物を持ち、どんなに健康と快適な生活とに恵まれていようと、人々は尊敬のうちにいるのでなければ、人間は満足しないのである。彼は、人間の理性を大いに尊敬しているので、地上にどんな有利なものを持とうと、もしそれと同時に人間の理性の中にも有利な地位を占めているのでなければ嬉しくない。これが世の中で最も美しい地位であり、何物も彼をこの欲望からそむかせることはできない。そして、それが、人間の心の最も消しがたい性質である。

 

前田陽一 責任編集    

アダム・スミス 「国富論」第一編第一章

  社会の進歩のつれて、学問や思索は他のすべての仕事と同じように市民の一特定階級の、主要なまたは唯一の職業となり生業となる。そのうえ、他のすべての仕事と同じように、この職業も多数の異なった分野に細分され、そのおのおのは、学者たちの特別の仲間や階級に生業を提供する。そして学問における仕事のこうした細分は、すべての他の仕事の場合と同じように、技能を増進し時間を節約するものである。それによって各自は、自分たちの独自の分野において、ますます専門家となり、全体としていっそう多くの仕事が達成され、科学的知識の量はいちじるしく増大するのである。

 

大河内一男 責任編集    

アダム・スミス 「国富論」第一編第十章

  つまらない仕事では、労働の楽しみはもっぱら労働の報酬にある。その楽しみを最もはやく受け取れる状態にある人は、それを味わうことに最もはやく思いをめぐらし、そしてまた、勤勉の習慣をはやく身につけがちである。若い人は、長いあいだその労働からなんの利益も受けないときには、労働に嫌悪の情をいだくのが自然である。公共の慈善団体の手で徒弟に出される少年は、一般に、通常の年数以上の義務を負う。そこでかれらは、たいへん怠惰で役に立たない者になるのが普通である。

 

大河内一男 責任編集