本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  時間と貨幣の関係は、じつに興味深い。貨幣はいくらかエネルギーに似ており、時間軸に沿って移動できる。このエネルギーはたいへん役に立つと同時に、きわめて危険でもある。このエネルギーを時空間の連続体の中に置くと、どこに置いてもそこで何かが起こる。エネルギーとしての貨幣は三次元に移動可能だ。垂直方向(資本を持つ者が持たない者に貸す)、水平方向(水平的水平的すなわち地理的な移動のスピードと自由度は、グローバリゼーションの副産物、いやむしろ推進力である)はもちろん、人間とは異なり時間軸に沿っても移動できる。貨幣のタイムトラベルが可能なのは、まさに利子があるからだ。貨幣は抽象的な存在であり、状況にも、空間にも、そして時間にさえ縛られない。ただ約束すればいいのだ。書面でもいいし、口頭でもかまわない。 「では今日からカウントしてください。必ずお返ししますから」。これであなたはドバイに超高層建築を建てることだってできる。もちろん貨幣それ自体にはタイムトラベルはできない。だが貨幣は記号にすぎない——エネルギーを物質的・具体的に表現しているだけである。貨幣のこの性質のおかげで、将来のエネルギーを今日の利益のために移転することが可能になる。債務が未来から現在にエネルギーを移転できるのに対し、貯蓄は過去から今日にエネルギーを移転することができる。金融政策と財政政策は、このエネルギーを管理・運用することにほかならない。
  今日に移転された貨幣のエネルギー特性は、GDP統計といったもので表すことができる。しかし時間の不確定性があるため、GDP成長率を巡る理論はしばしば無意味に陥りやすい。端的に言ってGDPの伸びは、債務の助け(さらには財政赤字または黒字という形での財政政策)、あるいは金利の助け(金融政策)に左右されるからだ。GDPよりも数倍大きい債務が背後に存在する状況で、GDPの伸びを云々することに何の意味があるだろうか。富を得るために莫大な借金をしていたら、富を計測することに何の意味があるだろうか。

 

村井章子 訳