フェルナンド・ペソア「不安の書」
世界の支配はわれわれ自身のうちで始まる。世界を支配する者は誠実な者ではなく、また不誠実な者でもない。人工的で自動的な手段により真の誠実さを自分に作る者だ。その誠実さが彼の力になり、これが他人の虚偽性の低い誠実さを前にして光を放つ。うまく自分を欺くことが政治家に第一に必要とされる性質だ。詩人と哲学者だけにしか世界の現実的見方ができない、なぜなら、彼らだけにしか幻想を持たないことが許されないからだ。はっきり見えると、行動しないことになる。
高橋都彦 訳
フェルナンド・ペソア「不安の書」
人生は無意識に行なわれる実験的な旅だ。心が物質を通りぬける旅であり、心が旅をするので、心のなかで生きられる。したがって、外面的に生きた人よりもいっそう激しく、いっそう広く、いっそう騒がしく生きた黙想的な人がいる。結果がすべてだ。感じられたことが生きられたことになる。目に見える仕事と同じ程度に夢で疲れて休むことがある。よく考えたときほどよく生きたことはけっしてない。
高橋都彦 訳
フェルナンド・ペソア「不安の書」
わたしは憤慨しない、憤慨は強い者にふさわしいからだ。わたしは諦めない、諦めは気高い者にふさわしいからだ。わたしは沈黙しない、沈黙は偉大な者にふさわしいからだ。そしてわたしは強くも気高くも偉大でもない。苦しみ、夢見る。弱いので不満を漏らし、芸術家なので不満を音楽的に織り上げ、どうしたら美しくなるかという自分の考えにそっていちばんよいと思われるように夢を整えて娯しむ。
高橋都彦 訳
フェルナンド・ペソア「不安の書」
もしもいつかしっかりと安定した生活を得て自由にものを書き発表できるようになれば、ろくに書けず発表もしない、この不安定な生活が間違いなく懐かしくなると自分でも承知している。懐かしくなるのは、その月並な生活が過去のもので、もう二度と経験しないという理由だけでなく、それぞれの種類の生活には固有の良さと特有の悦びがあり、よりよいものへ移るとしても、他の生活に移ると、その特有の悦びは冴えないものになり、その固有の良さは劣ったものになり、消えてなくなり、寂しく感じるからでもある。
高橋都彦 訳
フェルナンドフェルナンド・ペソア「不安の書」
感性が鋭ければ鋭いほど、感じる能力が繊細であればあるほど、それだけいっそうばかばかしいほど些細なことに動揺し、おののく。暗く垂れこめた朝を目にして苦悩するには、驚くほどの知性が必要だ。あまり感性のない人間は天気で苦悩しない。いつだって天気は天気だからだ。自分の上に落ちてこないかぎり、雨は感じないのだ。
高橋都彦 訳
フェルナンド・ペソア「不安の書」
地球全体を歩きまわった旅行者は五千マイル先にゆこうとも目新しさを感じない。なぜなら、ただ新しいものを見つけるだけだからだ。毎度、目新しさ、つまり永遠に新しいことの古さを見つけるのだが、目新しさという抽象的な概念は二度目の具体的な経験とともに海の底に沈んでいる。
真の知恵さえあれば、人間は読み方も知らず誰とも話すことなく、ただ感覚を働かせ、悲しみを知らない魂によって、椅子に座ったまま世界の全光景を娯しむことができる。
高橋都彦 訳
フェルナンド・ペソア「不安の書」
倦怠はそう、世界にうんざりしていること、生きていることの不快感、生きたことの疲労だ。倦怠は確かに物事の冗漫な虚しさに対する肉体的感覚だ。しかし、倦怠はこれ以上で、存在するものであれ存在しないものであれ他の世界にうんざりしていることであり、別人としてであれ別な形式によってであれ別の世界においてであれ生きなければならないという不快感であり、昨日や今日だけでなく明日も、もしあるとすれば永遠に、さらに、永遠というのがそうであれば無の疲労なのだ。倦怠を感じているときの心に痛みを与えるのは、物事や存在の虚しさだけでもない。物事や存在ではない何か別な物に対する虚しさであり、虚しさを感じ、自分を虚しく感じ、それ自身に嫌気を感じ、自己を拒否する心そのものに対する虚しさでもある。
高橋都彦 訳
フェルナンド・ペソア「不安の書」
考えるということの不都合のひとつは、考えているときに見てしまうことだ。理性的に考える者はぼんやりする。情緒的に考える者は眠っている。意図的に考える者は死んでいる。しかしながら、わたしは想像力を働かせて考え、わたしにあっては理性か苦悩か衝動かのいずれかにちがいないものすべては、太陽が最後にしばし漂う岩に囲まれたこの死んだ湖のように、何か無関心で遠いものになる。
高橋都彦 訳