本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

フェルナンド・ペソア「不安の書書」

  何もかもがばかげている。命を賭けて金を稼ぎ、貯え、それを遺してやる子供もいず、天国がその金の超越性を守ってくれるという期待もしていない人がいる。死後の名声を得ようと努力し、その名声に恵まれたことを知る死後を信じない人もいる。実際には好きでもないことを追い求めて身を擦り減らす者もいる。さらに、いるのだ……。

  知識を得ようと無益に読む者がいる。また生きようと無益に娯しむ者もいる。

 

高橋都彦 訳  

 

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  世界は感じない人間のものだ。実用的な人間になるための本質的な条件は感性に欠けていることだ。生活を実践する上で大切な資質は行動に導く資質、つまり意志だ。ところが、行動を妨げるものがふたつある。感性と、結局は感性をともなった思考に過ぎない分析的思考だ。あらゆる行動はその性質上、外界に対する個性の投影であり、外界は大きく主要な部分が人間によって構成されているので、その個性の投影は、行動の仕方次第では、他人の進む道を横切ったり遮ったり、他人を傷つけたり踏みつけたりすることになる。

  したがって、行動するには、われわれは他人の個性、彼らの苦悩や喜びを容易に想像できないでいることが必要になる。共感する者は立ち止まってしまう。行動家は外界をもっぱら動かない物質——彼が踏みつけたり、道から取り除いたりする石のように、それ自身動かないものであれ、あるいは、石のように取り除かれるか踏みつけられるかして抵抗するすべもないまま、石と同様に動かない人間であれ——そうした物質から構成されていると見なす。

 

感じない者は命令する。勝つのに必要なことしか考えない者が勝つ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  芸術は、われわれの感じることを他人に感じさせ、彼らを彼ら自身から解放し、とりわけ解放のためにわれわれの個性を提供することにある。わたしの感じることは、それを感じるときの真の実体のうちにあるかぎり絶対的に伝達不能であり、それを深く感じれば感じるほど、それだけいっそう伝達不能になる。したがって、わたしの感じることを他人に伝えられるようにするには、わたしの感情を他人の言葉に翻訳しなければならない。つまり他人が読んで、わたしの感じたとおりに感じるように、わたしの感じるものとして、それを述べなければならない。そして、この他人が芸術上の仮定により、この人でもあの人でもなく、あらゆる人、つまり誰にでも共通する人なので、結局わたしのしなければならないのは、感じたものの真の性質を歪めるとしても、わたしの感情を典型的な人間的感情に変えることだ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  自分を見つけたとしても、わたしは自分を失い、信じたとしても疑い、もしも手に入れたとしても、所持していない。散歩しているかのように眠るが、わたしは目覚めている。眠っているかのように目覚め、それに自分が自分でない。生きるとは結局、それ自身大きな不眠であり、われわれの考えたり、したりするすべてには、意識清明な突然の目覚めがある。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  わたしは生活に探し求めてきたものすべてを、探し求めてきたからこそ放棄した。わたしは、探しているうちに夢を見て、それがもう何だったのか忘れてしまったものをぼんやりと探している人も同然だ。掻きまぜ、位置を変え、置きかえては探す目に見える両手、それぞれが正確に五本の指をそなえた白くて長い、存在する両手の現実の身振りは、探してみたが存在しない物よりもいっそう現実的になる。

  わたしがこれまでに得たものはすべて、この高く、多様に一様な空と同様であり、遠くの光に染まった無から出来た襤褸であり、死がまったく本物の悲しい微笑みで遠くから黄金色に染める偽りの生の断片なのだ。わたしの体験したことはすべて、そう、わたしが探し方を知らなかったということであり、さながら黄昏の沼地の封建領主や、墓が空っぽの町の寂しい皇子のようだった。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  希望がなければ生きられないという人がいるし、また希望を持つと生きるのは虚しいという人もいる。今日期待も絶望もしないわたしにとって、生きることは、わたしを包み込む単なる外枠に過ぎず、わたしはそれを、目を娯しませるためだけに作られた粗筋のない見世物——脈絡のない舞踏、風に揺れる葉、日の光に色彩を変える雲、旧市街の雑多な区域にでたらめに走る旧い街並——のように見る。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  わたしは自分が何を望むのか、あるいは何を望まないのかが分からない。もはや望み方も分からず、人がどのように望むのかさえ分からなくなり、通常、自分たちが望んでいるということや、望みたいと望んでいるということを知るための感動や思考さえ分からなくなった。わたしは自分が誰なのか、あるいは自分が何なのかが分からない。崩れた塀の下に埋まった誰かのように、わたしは倒れた宇宙全体の空虚のもとに横たわっている。こうして、わたしは夜になるまで、異質に感じられる愛撫が、わたし自身への苛立ちとともに、微風のように漂い始めるまで、自分の後をたどっていくのだ。

 

高橋都彦 訳    

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  漠然とした不安により影に縛りつけられた、失われた怠惰な言葉、行き当たりばったりの隠喩……。どこの並木道で過ごしたのか分からないが、より娯しい時間の名残……。灯火は消え、消えた明かりの思い出のなかでその黄金色が闇に輝く……。無限に向かって立つ目に見えない樹から落ちた枯葉のように、言葉が力ない指から滑り落ち、風に舞うでもなく地面に落ちる……。他人の農園にある池が懐かしく……。けっして起きなかったことに対する郷愁……。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  あらゆる海を横断した人は自分自身の単調さを横断しただけだ。わたしはすでに誰よりも多くの海を横断した。すでに、地上にある山々よりも多くの山を見た。すでに、存在するよりも多くの町を通り過ぎ、非世界の大きな川は、わたしの観想する視線のもとを絶対的に流れた。もしも旅に出るなら、すでに旅せずに見たものの貧弱な模造品に出会うのだろう。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  自分が理解されるのをいつも拒絶した。理解されるとは、身体を売ることだ。本気で自分とはちがうものと見なされ、品位を持ち、飾り気なく人間的に知られていないほうがいい。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  生きるとは別人になるということだ。もしも今日、昨日感じたように感じるなら、感じることすらできないということだ。昨日と同じことを今日感じるなら、それは感じるのではない——昨日感じたことを今日思い出すのであり、昨日命を失った者が今日生きた死体になるということだ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  自分は他人と調和できずに暮らしていると深く感じさせるものは、思うに、大部分の人は感性で考え、わたしは思考で感じるということだ。

  月並な人間にとっては、感じるのが生きることであり、考えるのは生き方を知ることだ。わたしにとっては、考えるのが生きることであり、感じるのは考える糧以上のものではない。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

わたしのもっとも幸せな時間は、何も考えず、何も望まず、夢見ることさえせず、考え違いをしている植物のような、生き物の表面で成長する単なる苔のような非活動状態に浸っているときなのだ。苦しみを感じることもなく、わたしは、死と消滅の前兆は何でもないというばかげた意識を味わう。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

夢が現実を凌いでいるからといって、夢想家が活動的な人よりも優れているのではない。夢想家が優れているのは、夢見ることは生きることよりもはるかに実用的であり、夢想家は行動家よりも生活からはるかに広く、はるかに多様な悦びを引き出すからなのだ。さらに正確な、さらに直線的な言葉で言えば、夢想家こそが行動家なのだ。

 

高橋都彦 訳