本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ラッセル「幸福論」第7章

  私たちの伝統的な道徳は、不当に自己中心的であった。そして、罪の観念は、こうした、愚かに愚かにも自己に注意を集中することの一部である。この、欠陥のある道徳によってかもし出された主観的な気分を味わったことのない人びとには、理性は不必要かもしれない。しかし、一度この病気にかかった人びとにとっては、きちんと治癒するためには理性が必要である。もしかすると、この病気は、精神的発達において必要な段階なのかもしれない。理性の助けによってこの病気を乗り越えた人は、この病気も治癒もどちらも経験しなかった人よりも、一段と高いレベルに達したのだ、と私は考えたい。現代では一般的になっている理性ぎらいは、大部分、理性の働きが十分にかつ根本的に理解されていないところに原因がある。内部が分裂している人間は、興奮と気晴らしとを捜し求める。彼は、強烈な情熱を愛するが、それにはしっかりした理由があるわけではなく、さしあたり、その情熱がわれを忘れさせてくれるので、思考というつらい仕事をしなくても済むからである。彼にとっては、どんな情熱も一種の陶酔となる。そして、根本的な幸福などは思いもよらないので、彼には、苦痛からの救いはすべて陶酔の形でしか可能でないように思われるのだ。これは、しかし、根の深い病気の徴候である。このような病気のないところでは、おのれの能力を最も完全に発揮するときに最大の幸福が訪れる。最も強烈な喜びを味わえるのは、精神が最も活発で、もの忘れの最も少ない瞬間である。これこそ、まさに、幸福の最上の試金石の一つである。どんな種類であれ、陶酔を必要とするような幸福は、いんちきで不満足なものだ。本当に満足できる幸福は、それに伴って、私たちの諸能力が最大限に行使され、私たちの生きている世界を最大限に理解させてくれるものである。

 

安藤貞雄 訳