本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

M.マクルーハン 「メディア論」第一部

  何であれ新しいメディアが生み出されると、まぎれもなく「閉鎖」というべき心理的な作用が生じるが、それはそれにたいする需要があるからである。自動車が生まれるまで、だれも自動車を欲しがりはしないし、テレビの番組ができるまで、だれもテレビに関心をもちはしない。独自の需要の世界を生み出すという、この技術の力は、技術がまず最初にわれわれ自身の身体および感覚の拡張であるという事実と無関係でない。もし視覚を奪われれば、他の諸感覚がある程度は視覚の役割を引き受ける。けれども、使える感覚を使わなければならないという必要は、呼吸の場合と同じように抜きがたいものだ——だからこそ、ラジオやテレビを程度の差こそあれ持続的に放送してほしいという衝動が、無理もないものとなるのである。持続的に使いたいという衝動は、公開される番組の「内容」あるいは個人の感覚生活の「内容」とまったく関係がない。技術がわれわれの身体の一部であるという事実を証言するだけだ。電気の技術はわれわれの神経組織と直接に関係しているから、その大衆自身の神経の上で演じられているものについて、「大衆がなにを欲するか」を論じても滑稽である。この問題は、大都市の人びとに、自分の周囲でどういう眺め、どういう響きが好きかと尋ねるようなものであろう。われわれの目や耳や神経を借用して利益を上げようとする人びとの操作の手に、いったん、われわれの感覚や神経組織を譲り渡してしまったら、実際には、もうどんな権利も手もとに残っていないのだ。目や耳や神経を商業会社に貸し与えることは、共有財産であることばを私企業に渡してしまうようなものであり、地球の大気を独占企業に与えてしまうようなものなのだ。

 

栗原裕 河本仲聖 訳