本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

2018-01-01から1年間の記事一覧

フェルナンド・ペソア「不安の書書」

何もかもがばかげている。命を賭けて金を稼ぎ、貯え、それを遺してやる子供もいず、天国がその金の超越性を守ってくれるという期待もしていない人がいる。死後の名声を得ようと努力し、その名声に恵まれたことを知る死後を信じない人もいる。実際には好きで…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

世界は感じない人間のものだ。実用的な人間になるための本質的な条件は感性に欠けていることだ。生活を実践する上で大切な資質は行動に導く資質、つまり意志だ。ところが、行動を妨げるものがふたつある。感性と、結局は感性をともなった思考に過ぎない分析…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

芸術は、われわれの感じることを他人に感じさせ、彼らを彼ら自身から解放し、とりわけ解放のためにわれわれの個性を提供することにある。わたしの感じることは、それを感じるときの真の実体のうちにあるかぎり絶対的に伝達不能であり、それを深く感じれば感…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

自分を見つけたとしても、わたしは自分を失い、信じたとしても疑い、もしも手に入れたとしても、所持していない。散歩しているかのように眠るが、わたしは目覚めている。眠っているかのように目覚め、それに自分が自分でない。生きるとは結局、それ自身大き…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

わたしは生活に探し求めてきたものすべてを、探し求めてきたからこそ放棄した。わたしは、探しているうちに夢を見て、それがもう何だったのか忘れてしまったものをぼんやりと探している人も同然だ。掻きまぜ、位置を変え、置きかえては探す目に見える両手、…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

希望がなければ生きられないという人がいるし、また希望を持つと生きるのは虚しいという人もいる。今日期待も絶望もしないわたしにとって、生きることは、わたしを包み込む単なる外枠に過ぎず、わたしはそれを、目を娯しませるためだけに作られた粗筋のない…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

わたしは自分が何を望むのか、あるいは何を望まないのかが分からない。もはや望み方も分からず、人がどのように望むのかさえ分からなくなり、通常、自分たちが望んでいるということや、望みたいと望んでいるということを知るための感動や思考さえ分からなく…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

漠然とした不安により影に縛りつけられた、失われた怠惰な言葉、行き当たりばったりの隠喩……。どこの並木道で過ごしたのか分からないが、より娯しい時間の名残……。灯火は消え、消えた明かりの思い出のなかでその黄金色が闇に輝く……。無限に向かって立つ目に…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

あらゆる海を横断した人は自分自身の単調さを横断しただけだ。わたしはすでに誰よりも多くの海を横断した。すでに、地上にある山々よりも多くの山を見た。すでに、存在するよりも多くの町を通り過ぎ、非世界の大きな川は、わたしの観想する視線のもとを絶対…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

自分が理解されるのをいつも拒絶した。理解されるとは、身体を売ることだ。本気で自分とはちがうものと見なされ、品位を持ち、飾り気なく人間的に知られていないほうがいい。 高橋都彦 訳

フェルナンド・ペソア「不安の書」

生きるとは別人になるということだ。もしも今日、昨日感じたように感じるなら、感じることすらできないということだ。昨日と同じことを今日感じるなら、それは感じるのではない——昨日感じたことを今日思い出すのであり、昨日命を失った者が今日生きた死体に…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

自分は他人と調和できずに暮らしていると深く感じさせるものは、思うに、大部分の人は感性で考え、わたしは思考で感じるということだ。 月並な人間にとっては、感じるのが生きることであり、考えるのは生き方を知ることだ。わたしにとっては、考えるのが生き…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

わたしのもっとも幸せな時間は、何も考えず、何も望まず、夢見ることさえせず、考え違いをしている植物のような、生き物の表面で成長する単なる苔のような非活動状態に浸っているときなのだ。苦しみを感じることもなく、わたしは、死と消滅の前兆は何でもな…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

夢が現実を凌いでいるからといって、夢想家が活動的な人よりも優れているのではない。夢想家が優れているのは、夢見ることは生きることよりもはるかに実用的であり、夢想家は行動家よりも生活からはるかに広く、はるかに多様な悦びを引き出すからなのだ。さ…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

理解するのを望まず、分析しない……自然を見るように自分を見る。野を眺めるように自分の印象を眺める__知恵とはこういうことだ。 高橋都彦 訳

フェルナンド・ペソア「不安の書」

なぜ芸術は美しいのか?役に立たないからだ。なぜ実生活は醜いのか?すべて目的、目論見、意図だからだ。実生活の道はどれもこれも、ある地点から別の地点へいくためだ。誰も出発しないところから、誰も向かっていかないところへ向かう道があればよいのだが…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

言葉は見られ聞かれて完全になる。 高橋都彦 訳

フェルナンド・ペソア「不安の書」

われわれは本来の自分ではなく、人生は素早く悲しい。夜の波音は夜そのものの音だ。そして何と多くの人が、深みで泡だちくぐもった音をたてて闇に消えていく永遠の希望のように、その音を自分の心のなかで聞いたことか! 達成した者たちの流した多くの涙、成…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

夢を鮮明にするために、わたしは、いかに現実の風景や実生活の人物が鮮明に見えるかを知らなければならない。というのは、夢想家の視覚は物を見る人の視覚とはちがうからだ。夢のなかでは、現実におけるように対象物の重要な面と重要でない面の両方に一様に…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

自分に必要なものを望むのは人間的であり、必要ではないが望ましいものを望むのは人間的だ。病的とは、必要なものと望ましいもの同じように強く望み、パンのないのを悩むように、完全でないのを悩むことだ。まさしくロマンチシズムの弊害がこれで、まるで手…

フェルナンド・ペソア「不安の書」

何事も深刻に受け止めず、自分の感覚以外の現実は確かなものだと考えず、われわれは自分の感覚のなかに逃げ込み、大きな未知の国々であるかのように、それを探検する。そして、もしもただ単に美学的観想だけでなく、その方法や結果を表現しようと精出して取…

マーク・トウェイン「人間とは何か」

結構、これがその法則だよ、よく憶えとくんだな。つまり、揺籃から墓場まで、人間って奴の行動ってのは、終始一貫、絶対にこの唯一最大の動機——すなわち、まず自分自身の安心感、心の慰めを求めるという以外には、絶対にありえんのだな。 中野好夫 訳

J.L.ボルヘス「ブロディーの報告書」

奇異に思われるのは、人間は無限に遠く背後を振り返ることができるが、前方を見ようとすればそれが不可能だということである。 鼓直 訳

J.L.ボルヘス「グアヤキル」

ついでに言えば、あるできごとを告白するのは、その行為者たることをやめて証人となることだ。できごとを見、語るが、実際に行なった者ではない人間になることだ。 鼓直 訳

J.L.ボルヘス「ロセンド・フアレスの物語」

人間、その身に何かが起こっても、長い年月がたってからでないとその意味がわからない。 鼓直 訳

J.L.ボルヘス「卑劣な男」

友情は恋に比べても、またこの複雑な人生が見せる別の顔のどれ一つと比べても、負けないくらい神秘的なものだ。いつかふと思ったのだが、ただ一つ神秘的でないものがあるとすれば、幸福だ。それだけで自足するものだから。 鼓直 訳

角幡唯介「極夜行」

ところが光がないと、心の不安の源である空間領域におけるリアルな実体把握が不可能となる。周囲の山の様子が見えないと、当然、自分が今どこにいるか具体的に分からない。居場所が分からなければ、近い将来、正しくない場所に行ってしまったり家に帰れなか…

角幡唯介「極夜行」

この現実の経験世界に存在するあらゆる事物と同様、人間の存在もまた時間と空間の中にしっかりとした基盤をもつことで初めて安定する。安定するためには光が必要である。なぜなら光があれば自己の実体を周囲の風景と照らしあわせて、客観的な物体としてその…

角幡唯介「極夜行」

氷床行進中から延々とつづいてきた、この漠然とした、とりとめのない、まったく不確かな感じ。闇によって視覚情報が奪われることで、己の存在基盤が揺るがされる感じ。普段の生活で意識せずに享受しているがっちりとした揺るぎない世界から浮遊し、漂流して…

角幡唯介「極夜行」

テクノロジーの本質は人間の身体機能の延長であり、あるテクノロジーが開発されると、人間は本来、己の身体にそなわっていた機能をそのテクノロジーに移しかえて作業を委託することができる。そうすると作業効率は高まり仕事は迅速になって社会は発展するが…