宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
(どうしてぼくはこんなにかなしいのだろう。ぼくはもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこに岸のずうっと向こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。ぼくはあれをよく見てこころもちをしずめるんだ。)
ジョバンニはほてって痛いあたまを両手で押えるようにしてそっちの方を見ました。
(ああほんとうにどこまでもどこまでもぼくといっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうにはなしているし、ぼくはほんとうにつらいなあ。)
ジョバンニの目はまた涙でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやりと白く見えるだけでした。
サン=テグジュペリ 「星の王子さま」
おとなというものは、数字が好きです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。〈どんな声の人?〉とか、〈どんな遊びがすき?〉とか、〈チョウの採集をする人?〉とかいうようなことは、てんできかずに、〈その人、いくつ?〉とか、〈きょうだいは、なん人いますか〉とか、〈目方はどのくらい?〉とか、〈おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか〉とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。
おとなの人たちに〈桃色のレンガでできていて、窓にジェラニウムの鉢がおいてあって、屋根の上にハトのいる、きれいな家を見たよ……〉といったところで、どうもピンとこないでしょう。おとなたちには〈十万フランの家を見た〉といわなくてはいけないのです。すると、おとなたちは、とんきょうな声をだして、〈なんてりっぱな家だろう〉というのです。
内藤濯 訳
サン=テグジュペリ 「星の王子さま」
「じぶんのものにしてしまったことでなけりゃ、なんにもわかりゃしないよ。人間ってやつぁ、いまじゃ、もう、なにもわかるひまがないんだ。あきんどの店で、できあいの品物を買ってるんだがね。友だちを売りものにしているあきんどなんて、ありゃしないんだから、人間のやつ、いまじゃ、友だちなんか持ってやしないんだ。あんたが友だちがほしいんなら、おれと仲よくするんだな」
「でも、どうしたらいいの?」と、王子さまがいいました。
キツネが答えました。
「しんぼうが大事だよ。最初は、おれからすこしはなれて、こんなふうに、草の中にすわるんだ。おれは、あんたをちょいちょい横目でみる。あんたは、なんにもいわない。それも、ことばってやつが、勘ちがいのもとだからだよ。一日一日とたってゆくうちにゃ、あんたは、だんだん近いところへきて、すわれるようになるんだ……」
内藤濯 訳
サン=テグジュペリ 「星の王子さま」
きみの住んでるとこの人たちったら、おなじ一つの庭で、バラの花を五千も作ってるけど、……じぶんたちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ」と、王子さまがいいました。
「うん、わからずにいる……」と、ぼくは答えました。
「だけど、さがしてるものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ……」
内藤濯 訳
星野道夫 「長い旅の途上」
五年前、アラスカで死んだ友人のカメラマンの灰を、一本のトウヒの木の下に仲間で埋めたことがある。そこはマッキンレー山に近い、イグルーバレイと呼ばれる谷だった。灰を埋めた小さな丘から、トウヒの森が見渡せた。彼が一番好きな場所だった。
この世に生きるすべてのものは、いつか土に帰り、また旅が始まる。有機物と無機物、生きるものと死すものとの境は、一体どこにあるのだろう。
いつの日か自分の肉体が滅びた時、私もまた、好きだった場所で土に帰りたいと思う。ツンドラの植物にわずかな養分を与え、極北の小さな花を咲かせ、毎年春になれば、カリブーの足音が遠い彼方から聞こえてくる……そんなことを、私は時々考えることがある。
星野道夫 「長い旅の途上」
私たちは、二つの時間を持って生きている。カレンダーや時計の針に刻まれる慌ただしい日常と、もう一つは漠然とした生命の時間である。すべてのものに、平等に同じ時間が流れていること……その不思議さが、私たちにもう一つの時間を気付かせ、日々の暮らしにはるかな視点を与えてくれるような気がする。
星野道夫 「長い旅の途上」
私たちが生きていくということは、だれを犠牲にして自分が生き延びるか、という日々の選択である。生命体の本質とは他者を殺して食べることにあるからだ。それは近代社会が忘れていった血のにおいであり、悲しみという言葉に置き換えてもいい。その悲しみをストレートに受け止めなければならないのが狩猟民なのだ。人々は自らが殺した生き物たちの霊を慰め、再び戻ってきて犠牲になってくれることを祈る。
クジラと共に生き、クジラと共に大地へ帰ってゆく人々。ベーリング海から吹き寄せる霧が大地から突き出たクジラの骨を優しくなでてゆく。美しい墓の周りに咲き始めた小さな極北の花々をながめていると、有機物と無機物、いや生と死の境さえぼんやりとしてきて、あらゆるものが生まれ変わりながら終わりのない旅をしているような気がしてくる。
村上春樹 「国境の南、太陽の西」
「雨が降れば花が咲くし、雨が降らなければそれが枯れるんだ。虫はトカゲに食べられるし、トカゲは鳥に食べられる。でもいずれはみんな死んでいく。死んでからからになっちゃうんだ。ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。」
レイ・カーツワイル 「人類の未来」より
もちろん、人間と同様、コンピュータの能力も無限ではありません。そのように見えるかもしれないけれども、データすべてを記憶するわけではない。知性の特性の一つとして、情報の取捨選択ということがあります。そうしなければ押し寄せる情報の波にのまれてしまいますから、常に選択をしていかなければなりません。
10年、20年前に起こったことを覚えているという場合、それは起こったことをビデオのように記憶しているというのではなく、残っている記憶の断片をつないで、新たにその状況を再構成しているのにすぎないのです。コンピュータも基本的に同じです。それが知性のエッセンスというものです。
刻々と入ってくるすべての事柄を覚えようとしないこと。そうでないと、膨大な記憶量を誇るように見えるコンピュータでも、簡単に情報量に圧倒されてしまうのです。常に、後で必要になる重要なエッセンスだけを残して、他を破棄するということを行う必要があります。コンピュータでも同じことができますし、AIも当然このように働きます。
実際、コンピュータが車を運転できるということは、何が重要なのかを判断できるということです。これはとても人間的なタスクです。運転しながら、通り過ぎていく樹のすべての枝ぶりや葉のつき方に注意を払うことは重要ではありませんが、もしボールが目の前に飛んできたら、ボールがあるということは、近くにそのボールを追いかけている子供がいるかもしれないから、特別な注意を払う必要がある、というふうに仮定できる知能を持っていなければならない。
樹に何枚の葉がついているかというようなことに注意を払わないで、その状況を分析して、重要なことだけにフォーカスする。それが知能のエッセンスでしょう。マシーンもそれができるようになってきています。
吉成真由美インタビュー・編
レイ・カーツワイル 「人類の未来」より
民主主義そのものが、コミュニケーション・テクノロジーの発達によって直接支えられていると言えます。コミュニケーション手段として、本の印刷が可能になり、電話が出てきて初めて、最初の近代的なデモクラシーが出現しました。100年前、世界中の民主主義国家は、片手で数えるほどしかなかった。200年前は、たった一つしか存在しなかったのです。
吉成真由美 インタビュー・編
シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」自我
不幸の淵に沈み、あらゆる執着が断たれても、生命維持の本能は生きのびて、どこにでも巻きひげを絡ませる植物よろしく、支えとなりそうなものに見境なくしがみつく。かかる状況にあっては、感謝(低劣な次元のものはいざ知らず)や公正は思念にすらのぼるまい。隷属。自由意志を支えるエネルギーの余剰量がたりない。この余剰のおかげで事象にたいして距離をおくことができるというのに。この局面から捉えられた不幸は、剥きだしの生のつねとして、切断された四肢の残滓や蠢き群れる昆虫にも似て、ぞっとするほどおぞましい。形相なき生。生きのびることが唯一の執着となる。いっさいの執着が生への執着に取って替わられるとき、極限の不幸が始まる。このとき執着は剥きだしで現われる。おのれのほかに対象がない。地獄である。
この境界をふみこえ、ある期間その状態にとどまり、その後、なんらかの僥倖に恵まれたとき、そのひとはどうなるのか。この過去からどうやって癒やされるのか。
かかる仕組ゆえに、「不幸な人びとにとって生ほど甘美に思えるものはない。たとえ彼らの生が死より好ましいとは思えぬときでさえも」。
かかる状況で死を受け入れることは執着のまったき断念を意味する。
冨原真弓 訳