本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

M.マクルーハン 「メディア論」第一部

  何であれ新しいメディアが生み出されると、まぎれもなく「閉鎖」というべき心理的な作用が生じるが、それはそれにたいする需要があるからである。自動車が生まれるまで、だれも自動車を欲しがりはしないし、テレビの番組ができるまで、だれもテレビに関心をもちはしない。独自の需要の世界を生み出すという、この技術の力は、技術がまず最初にわれわれ自身の身体および感覚の拡張であるという事実と無関係でない。もし視覚を奪われれば、他の諸感覚がある程度は視覚の役割を引き受ける。けれども、使える感覚を使わなければならないという必要は、呼吸の場合と同じように抜きがたいものだ——だからこそ、ラジオやテレビを程度の差こそあれ持続的に放送してほしいという衝動が、無理もないものとなるのである。持続的に使いたいという衝動は、公開される番組の「内容」あるいは個人の感覚生活の「内容」とまったく関係がない。技術がわれわれの身体の一部であるという事実を証言するだけだ。電気の技術はわれわれの神経組織と直接に関係しているから、その大衆自身の神経の上で演じられているものについて、「大衆がなにを欲するか」を論じても滑稽である。この問題は、大都市の人びとに、自分の周囲でどういう眺め、どういう響きが好きかと尋ねるようなものであろう。われわれの目や耳や神経を借用して利益を上げようとする人びとの操作の手に、いったん、われわれの感覚や神経組織を譲り渡してしまったら、実際には、もうどんな権利も手もとに残っていないのだ。目や耳や神経を商業会社に貸し与えることは、共有財産であることばを私企業に渡してしまうようなものであり、地球の大気を独占企業に与えてしまうようなものなのだ。

 

栗原裕 河本仲聖 訳  

M.マクルーハン 「メディア論」第二部

  エドワード・T・ホールは『沈黙のことば』のなかで「時間が語る——アメリカのアクセント」を論じて、われわれの時間感覚とホピ・インディアンの時間感覚を対照してみせている。ホピ・インディアンにとって、時間は画一的あるいは持続的な連続体でなく、共存するいろいろな種類のものの複数体である。「それはトウモロコシが成熟し、羊が成長するときに生ずるものである……それは生あるものがその生のドラマを演じきるさいに起こる自然の過程である。」それゆえに、ホピ・インディアンにとっては、生の種類があるだけ、時間の種類もあることになる。これは現代の物理学者や科学者のもっている時間感覚でもある。科学者たちは、もはや出来事を時間のなかに含ませようとはせず、それぞれの物体がそれ自身の時間と空間とを作ると考える。その上、われわれが電気によって瞬間的な世界に住んでいる現在、空間と時間とは「空間-時間」の世界で全面的に相互に浸透しあっている。

 

栗原裕 河本仲聖 訳   

M.マクルーハン 「メディア論」第二部

  心理的に見れば、印刷本は視覚機能の拡張したものであるから、遠近法と固定した視点を強化することになった。視点と消失点とを強調すると、そこに遠近法の幻覚が出来上がる。これに結びついて、空間が視覚的、画一的、連続的なものであるという、もう一つの幻覚が生ずる。活字が線状をなして正確に画一的に配列された姿は、ルネッサンス期に経験された偉大な文化の形態および革新と切り離せないものである。印刷の最初の一世紀に、視覚と個人の視点とがはじめて強調されたのは、活字印刷という形をとった人間の拡張によって自己表現の手段が可能となったからであった。
  社会的に見ると、活字印刷という形をとった人間の拡張は、国家主義、産業主義、マス市場、識字と教育の普及というものをもたらした。なぜなら、印刷は正確に反復可能なイメージを提供し、それが社会的エネルギーを拡張させる、まったく新しい形態を刺激したからであった。印刷はルネッサンス期に大きな心理的および社会的エネルギーを放出さた。・・・一方で、伝統的な集団から個人を解放し、もう一方で、個人と個人を合わせて巨大な権力の集合体にするにはどうするか、そのモデルを提供する、ということである。一方で、作家や芸術家を大胆にさせ、自己表現を育成した。その同じ個人的な進取の精神が、他方で、ほかの人たちに軍事的および商業的に巨大な組織を作り出させたのであった。

 

栗原裕 河本仲聖 訳  

M.マクルーハン 「メディア論」第二部

  いったん文字文化人が細分化という分析技術を受け入れてしまうと、部族人のように宇宙のパターンにほとんど近づけなくなってしまう。開かれた宇宙よりは、分離された状態、仕切られた空気のほうを好む。自己の身体を宇宙のモデルとして受け入れたり、自己の住宅を——あるいは、それ以外のいかなるコミュニケーションのメディアをも——自己の身体の祭式的拡張であると見たりする傾向がなくなる。いったん人がこの表音アルファベットの視覚的力学を採用してしまうと、宇宙の秩序や祭式が身体器官やその社会的拡張として再起反復するという、部族人がとりつかれている考えを失い始める。しかしながら、宇宙的なものに無関心になることによって、微細な断片や専門の仕事に強烈な集中がなされることになり、それが西洋人の独特の力となっている。専門家というのは、小さな誤りをけっして犯さない反面、巨大な誤謬に向かって動いている人のことである。

 

栗原裕 河本仲聖 訳  

M.マクルーハン 「メディア論」第二部

  しかしながら、無文字世界には専門分化した「職業」なるものはない。未開の猟師や漁師は、現代の詩人や画家や思想家が労働をしないのと同じである。全人格が巻きこまれるところに、職業はない。職業は、定住の農耕共同体で労働の分化、機能と仕事の専門化が生じたときに始まった。コンピューターの時代に、われわれはふたたび全面的に流動する「役割」に巻きこまれる。電気の時代には、部族社会におけるように、固定した「職務」が献身と主体的参与に道を譲るのである。
  無文字社会では、貨幣とそれ以外の社会の諸機関との関係はきわめて単純である。貨幣の役割が膨大になったのは、それが社会の諸機関の専門化と分離を培い始めてからのことだ。実際、貨幣は、文字社会のますます専門分化していく活動を相互に関連させる主要な手段となる。文字文化が視覚をそれ以外の感覚から分離するのであるが、いま電子工学の時代になって、視覚の断片化力はいっそう突きとめやすい事実となっている。コンピューターと電気によるプログラミングの現代、情報を蓄積し移動させる手段がますます視覚的でも機械的でもなくなる一方、ますます統合的で有機的になってくる。瞬間的な電気の形態が生み出す全体の場が視覚化できないのは、電子の動きが視覚化できないのと同じである。瞬間的なものは時間と空間、人間の職業同士のあいだに相互性を生み出すが、古い通貨交換の形態ではますますそれに適合しなくなる。現代の物理学者が原子のデータを組織するときに視覚的な知覚のモデルを使おうとしても、その問題の本質に近づくことができないであろう。時間(視覚的、分節的に測られた)も空間(画一的、絵画的に閉じられた)も、ともに、瞬間的情報をむねとする電子工学の時代には、人は断片化した専門の職務を止めにし、情報の収集という役割を帯びる。こんにち、情報の収集が包括的な「文化」の概念をとり戻すのは、ちょうど、未開の食物採集者がその環境全体と完全に均衡を保ちつつ作業したのと同じだ。この新しい遊牧的で職業のない世界で、いま、なにがわれわれの仕とめるべき獲物かと言えば、人生と社会の創造的なプロセスについての知識と洞察とがそれである。

 

栗原裕 河本仲聖 訳  

M.マクルーハン 「メディア論」第二部

  言語もまた通貨と同じで、知覚を蓄えるものとして、個人あるいは世代の知覚や経験を伝えるものとして、その役割を果たす。言語は経験の変換者および貯蔵庫であるとともに、加えて、経験の縮小者および歪曲者でもある。だから、もし学習過程を加速し、時間と空間を越えて知識と洞察を伝達することができるようになれば、その最大の利点は、経験をいちいち言語化していくという不利な点をあっさり乗り越えてしまう。現代の数学および科学では、ますます経験を言語によらず体系化していく方法がとられるようになっている。
  貨幣は言語と同じように労働と経験の貯蔵庫であるが、同時に、変換者および伝達者でもある。とりわけ、書かれた言葉が社会の諸機能の分離を前進させて以来、貨幣は労働の貯蔵庫としての役割を脱することができるようになる。貯蔵庫としての役割の明白なのは、牛だとか毛皮だとかの物品が貨幣として用いられているときのことだ。貨幣が物品の形態を離脱し、もっぱら交換の役を演ずるもの(すなわち、価値を移し変えるもの)になってくるにつれて、それはますます速度を上げ、ますます大量に、移動するのである。

 

栗原裕 河本仲聖 訳  

M.マクルーハン 「メディア論」第二部

  逆説的に聞こえるかもしれないが、オートメーションは一般教養教育を必須のものとする。自動制御機構の電気時代は、突如として、先行する機械時代の機械的、専門分化的労役から人間を解放する。ちょうど機械と自動車が馬を労役から解放して、娯楽の分野に投げ入れたように、オートメーションは人にたいして同じ役割を果たす。われわれは突如として自由という脅威にさらされ、社会において自己雇用をおこない、想像力によってそこに参加していく内的能力に重い負担を課せられることになる。これは、社会の中で芸術家の役割を果たすように人びとに呼びかける運命の声といってよいであろう。このことは、多くの人びとに、彼らがいかに機械時代の断片的反復的しきたりに依存しきっていたかを認識させる効果がある。何千年も前に、食物採集的遊牧民であった人類は、位置の定まった、言い換えれば比較的定着性のある仕事をもつようになった。人間の専門分化が始まったのである。書字の発達と印刷の発達は、専門分化の過程を画する重要な段階であった。この文字文化は、時には「ペンは剣よりも強し」と見えることがありえたとしても、知識の役割を行動の役割から分離した点において、すこぶる専門分化的であった。だが、電気とオートメーションの出現によって、この断片化された過程を特色とした技術は、突如として、人間の対話と融合し、人間の統一を全面的に考慮する必要性と融合した。人びとは、突然、知識の遊牧民的採集者となった。前例がないほど遊牧的であり、前例がないほど豊かな情報をもち、前例がないほど断片的専門分化主義から自由である。だが同時に、前例がないほど全体的な社会過程に関与している。なぜなら、電気によって、われわれは中枢神経組織を全地球的に拡張し、あらゆる人間経験に即時的な相互関係をもたらすことができるからだ。

 

栗原裕 河本仲聖 訳  

グスターボ・アドルフォ・ベッケル 「ベッケル詩集」11

  当てずっぽうに放たれ
空を駆け横切りゆく矢、
どこに揺れながら突き刺さるのか
知りようもない。

 

  嵐が木から
もぎとる枯葉、
どこの溝で塵に戻るのか
誰も言えはしない。

 

  風が海に巻き上げ
押しゆく大波、
転がり過ぎゆき
どこの浜辺を目ざし進んでいるのか分からない。

 

  揺らめく輪をなしてきらめき
今にも消えようとする光、
そのうちのどれが最後まで燃え残るのか
知りようもない。

 

  それが僕だ、あてどなく
世界を横切ってゆく、
どこから来たのかも、どこへ僕の歩みが
僕を連れていくのかも思うこともなく。

 

山田眞史 訳  

グスターボ・アドルフォ・ベッケル 「ベッケル詩集」15

  青い水平線が
遠い彼方にかすむのを
黄金のゆらめく粉々のベールを
透かして見つめている時、
惨めな地べたから駆け上がり
あの黄金の霧とともに
漂えそうに僕には思える、
軽々とした粒子となって
霧のように形をなくして!

 

  夜 暗い天の底に
星たちが
燃えたつ火の瞳のように
揺れているのを見つめている時、
ひと翔びであの星たちのきらめくところに昇り、
その光のなかに身を沈め、
そして星たちとともに
燃えあがる焔のなか
口づけをかわし、この身を溶かせそうに僕には思える。

 

  僕は懐疑の海を漕ぎ進み
自分の信ずるものすら知らずにいる。
だが、しかし、この熱い思いが僕に告げる。
汚れなき何ものかを
ここに  内に  僕は持っては、いるのだ、と。

 

山田眞史 訳    

グスターボ・アドルフォ・ベッケル 「ベッケル詩集」58

  今日は昨日のよう、明日は今日のよう、
そして永久に同じ!
灰色の空、果てしない地平線
そして歩く……歩く。 

 

  間の抜けた機械のように
拍子を刻んで動く心臓。
とんまな知性は
脳の片隅で眠ったきり。

 

  天国を願い望む魂は
信仰もなく これを求める。
目的もないままの疲労、なぜとも
知らずに転がりゆく波。

 

  同じ歌を同じ調子で
休むことなくうたう声。
絶えまなく落ちては落ちる
単調な水の滴。

 

  こうして日日はすべりゆく
あとからあとから、
今日は昨日と同じこと……そしてすべての日日が
歓びも苦しみもなく。

 

  ああ! 時には僕は懐かしむ、ため息をつきながら
昔の悲嘆を!
苦悩はつらいさ、しかし
悩みですらも生きている証!

 

山田眞史 訳    

グスターボ・アドルフォ・ベッケル 「ベッケル詩集」70

  何の夢を見たのかすら分からない
昨夜のことだ。
悲しい、とても悲しい夢だったにちがいない、
目ざめたあとも僕は苦しかったから。

 

  身を起こし、気づいた
枕がぬれていた、
そしてそれに気づいた時に、はじめて感じた、
魂が苦い歓びに満ちるのを。

 

  涙をしぼりだす
夢は悲しい。
でも、僕は悲しみのなかに歓びを覚えた……
まだ僕に涙が残っていると知ったのだ!

 

山田眞史 訳     

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第1章

自然の気まぐれに翻弄されなくなったことの代償は、社会と文明に依存せざるを得なくなったことである。社会が全体として高度化するほど、その構成員は個人として独力では生き延びられなくなる。社会の分業化が進むほど、生存に関わる程度にまで相互依存の度合いは高まる。

 

動物が必要とするものは、人間に比べたら微々たるものに過ぎない。これに対して人間は、自分の ニーズを満たすことができない。どれほど金持ちになって、21世紀のテクノロジーを手にしても。・・・文明人の場合、持てば持つほど、洗練されゆたかになるほど、必要なものは(けっして満たされないものも含め)増えていくように見える。何か一つを買えば、理論的には必要なものが一つなくなるはずだ。したがって、必要なものの総数は一だけ減るはずである。ところが実際には、「欲しいもの」の総数は、「持っているもの」の総数が増えるにつれて増えていく。ここで、人間の満たされない欲望に気づいていた経済学者のジョージ・スティグラーの言葉を引用したい。「ごくまともな人間が望むことと言えば、欲望を満たすことではなく、もっと欲しがること、もっとよいものを欲しがることだ」。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  人間は自分の理論を通じて世界を発見するだけでなく、世界を形成する。単に自然を加工する(大地を耕し、種を蒔き、干拓して土地の効率や肥沃度を高める)のではなく、より深い存在論的な意味で形成するのである。新しい言語形式や新しい分析モデルを発見したとき、または古い形式やモデルを捨てたとき、人間は現実を構築あるいは再構築している。モデルは人間の頭の中にだけ存在するのであって、「客観的な現実」の中には存在しない。この意味で、ニュートンは重力を発見したのではなく、発明したのだと言えよう。ニュートンは完全に抽象的な架空のフレームワークを発明し、それが広く受け入れられ、やがて現実に「なった」。マルクスもやはり発明をした。階級の搾取という概念を、である。彼の着想によって、ほぼ一世紀にわたり世界の大半の国で歴史と現実の認識が変わった。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  遊牧の民であるヘブライ人は、その特徴の多くをアブラハムから受け継いでいる。アブラハムカルデアの都市ウルを離れた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と主から命じられたためだ。移動生活を好み所有に縛られないことは、ヘブライ人の重要な特徴である。このような生活様式が経済に与える影響は、当然ながらきわめて大きい。第一に、このような社会では人間関係が密になり、あきらかに相互依存性が高まる。第二に、ひんぱんに移動するため、運べる以上のものは所有できない。彼らの物質的財産は、全部合わせてもたいした重さにならなかった。物理的な重量は、人をその土地に縛る。
  さらにヘブライ人は、所有主と所有物の間には目に見えない双方向性があることに気づいていた。人は物質的な財産を所有するが、しかしある程度まで、所有物は持ち主を所有し、その物に縛りつける。ひとたびある種の物質的な快適さに慣れてしまうと、それに背を向け、物を持たずに自由に生きるのはむずかしい。シナイ砂漠での物語では、快適と自由の二律背反が描かれている。ヘブライ人は、エジプトでの隷属生活から解放されてしばらくすると、モーセに不平を言い始める。
  モーセがじつに偉大だったことの一つは、不平を言う人々に対して、奴隷になって「ただで」食べ物をもらうよりも自由で飢えているほうがよいのだ、ときっぱり言い切ったことである。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  時間と貨幣の関係は、じつに興味深い。貨幣はいくらかエネルギーに似ており、時間軸に沿って移動できる。このエネルギーはたいへん役に立つと同時に、きわめて危険でもある。このエネルギーを時空間の連続体の中に置くと、どこに置いてもそこで何かが起こる。エネルギーとしての貨幣は三次元に移動可能だ。垂直方向(資本を持つ者が持たない者に貸す)、水平方向(水平的水平的すなわち地理的な移動のスピードと自由度は、グローバリゼーションの副産物、いやむしろ推進力である)はもちろん、人間とは異なり時間軸に沿っても移動できる。貨幣のタイムトラベルが可能なのは、まさに利子があるからだ。貨幣は抽象的な存在であり、状況にも、空間にも、そして時間にさえ縛られない。ただ約束すればいいのだ。書面でもいいし、口頭でもかまわない。 「では今日からカウントしてください。必ずお返ししますから」。これであなたはドバイに超高層建築を建てることだってできる。もちろん貨幣それ自体にはタイムトラベルはできない。だが貨幣は記号にすぎない——エネルギーを物質的・具体的に表現しているだけである。貨幣のこの性質のおかげで、将来のエネルギーを今日の利益のために移転することが可能になる。債務が未来から現在にエネルギーを移転できるのに対し、貯蓄は過去から今日にエネルギーを移転することができる。金融政策と財政政策は、このエネルギーを管理・運用することにほかならない。
  今日に移転された貨幣のエネルギー特性は、GDP統計といったもので表すことができる。しかし時間の不確定性があるため、GDP成長率を巡る理論はしばしば無意味に陥りやすい。端的に言ってGDPの伸びは、債務の助け(さらには財政赤字または黒字という形での財政政策)、あるいは金利の助け(金融政策)に左右されるからだ。GDPよりも数倍大きい債務が背後に存在する状況で、GDPの伸びを云々することに何の意味があるだろうか。富を得るために莫大な借金をしていたら、富を計測することに何の意味があるだろうか。

 

村井章子 訳