本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第2章

  近年の不況で失われた職のほとんどが高賃金業種のものだったのに対し、不況後に創出された雇用の四分の三は低賃金部門である。2000年以後の合衆国における「信じがたく弱々しい経済成長」の原因を研究したMITの経済学者、デイヴィッド・オーターは、IT(情報テクノロジー)が「職の分配を非常に変化させ」、収入や富の不均衡を拡大していると結論した。「飲食業には職が豊富にあり、金融業にも職が豊富にある一方、中庸の賃金、中庸の収入の職が減少している」。新たなコンピュータ・テクノロジーにより、さらに多くの経済部門にオートメーションが広がれば、この傾向は加速し、中産階級の空洞化と、高収入の専門職の失業がさらに進むだろう。これまたノーベル賞受賞者である経済学者、ポール・クルーグマンは指摘する。「スマートな機械はGDPを増大させるかもしれないが、人々に対する需要は減少させる——スマートな人々に対する需要をだ。するとわれわれがいま目にしているのは、前例なく豊かになりながらも、その利得がすべてロボットの所有者の元に生じている社会なのかもしれない」。

 

篠儀直子 訳  

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第4章

われわれのほとんどはホワイトヘッドと同様、オートメーションをよいものだと考えている。われわれをより高度な職へと引き上げてくれるものの、その他の点では、行動や思考のあり方を変えるものではないと思っている。だがそれは誤謬だ。オートメーションの研究者が「代替神話(substitutionmyth)」と呼ぶものの表れである。労働節約の装置は、ある仕事のなかから、切り離し可能な限られた部分だけを代替するのではない。それに参加する人々の役割、姿勢、スキルを含めた、仕事全体の性格を変えるのだ。ラジャ・パラスラマンが2010年に雑誌論文のなかで述べたとおり、「オートメーションは人間の活動に取って代わりのではなく、むしろその活動を変化させる。その変化は、設計者の意図や予想とは違うかたちになることも多い」。オートメーションは、労働と労働者の両方を作り変える。

 

篠儀直子 訳  

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第4章

  グーグルや、他のソフトウェア会社はもちろん、われわれの生活を楽にする事業を行っている。それをわれわれが求めているのであり、だからこそわれわれはこれらの社会を支持している。だが彼らの作るプログラムが、われわれの思考の代行に熟達するにつれ、当然われわれは自分の知性よりも、ソフトウェアのほうに頼るようになってしまった。精神を生成作業に駆り立てることも少なくなった。そうなると最終的にわれわれは、学ぶことも知ることも少なくなってしまう。能力も減っていく。現代のソフトウェアに関し、テキサス大学のコンピュータ科学者ミハイ・ナディーンが述べるように、「インターフェイスが人間の活動を肩代わりすればするほど、新しい状況に対するユーザーの適応性は下がる」。生成効果に代わって、コンピュータ・オートメーションは逆のものをわれわれに与えた——脱生成効果
(degeneration effect)である。

 

篠儀直子 訳  

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第4章

ロッククライマーから外科医、ピアニストに至るまで、「ある活動に深い喜びを恒常的に見出す」人々は、「体系づけられた難題のセットと、それに対応するスキルのセットが、最適な経験を生み出すことの例証である」とミハイ・チクセントミハイは述べる。彼らが従事する仕事や趣味は「豊かな行動機会を与えて」くれるのであり、一方、自分が開発したスキルのおかげで彼らは、この機会を最大限に活用することができる。世界のなかで自信をもって行動できる能力は、われわれをみな芸術家にしてくれる。「経験を積んだ芸術家が、困難なプロジェクトに取り組むときに体験する苦もない没入は、複雑なスキルの総体をすでに習得していることがつねに前提となっている」。われわれを労働から隔て、世界とわれわれとのあいだに割りこむオートメーションは、われわれの人生から芸術性を消し去っているのである。

 

篠儀直子 訳   

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第5章

システムの精密化は、それが機械的に動作するものであれデジタルに動作するものであれ、役割や責任の分割のされ方を決定するのであり、その結果、行使するよう各当事者に求められるスキルの種類も決定される。スキルが組みこまれれば組みこまれるほど、機械はその仕事をコントロールする権利を獲得するのであり、労働者がより深い能力——たとえば解釈や判断に関わる能力——に従事し、その能力を開発する機会は減少していく。オートメーションが最高レベルに達し、仕事を支配するようになると、労働者はスキル面ではもはや降下するしかない。これは強調しておくべきことだが、機械と人間との合同労働による直接の成果は、効率性の尺度から言えば、あるいは質の尺度から言っても、すぐれているかもしれない。だが、にもかかわらず、人間の側の責任と主体性は減じられる。「思考する機械の代償が、思考しない人間だとしたらどうだろうか?」と、技術史研究家のジョージ・ダイソンは2008年に問うた。この問いは、分析と決定の責任がコンピュータへと移行するにつれ、いよいよ重大なものとなっている。

 

篠儀直子 訳  

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第5章

  思考のアウトプットを複製しても、それは思考ではない。チューリング自身が強調しているとおり、アルゴリズムは直感の完全な代わりにはならないのである。「推論の意識的連鎖の結果ではない自発的判断」が生じる場が必ずある。われわれを知的な存在としているのは、文書から事例を引き出す能力でもなければ、データの並びのなかに統計的パターンを見出す能力でもない。物事を理解する能力——観察や経験から、生きることから得た知識を、その後のあらゆるタスクや難題に適用できる、豊かで流動的な世界理解へと組織する能力である。意識的・無意識的認知を、推論とインスピレーションとを生み出す、精神のこのしなやかな特質こそが、人間をして概念的に、批判的に、隠喩的に、推測的に、機知のあるかたちで思考させる——論理と想像の跳躍をさせるのだ。


チューリング→英国の数学者、コンピュータのパイオニア

 

篠儀直子 訳    

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第5章

  もしわれわれが不注意であれば、知的労働のオートメーション化は知的努力の性質と焦点を変化させ、最終的に、文化そのものの土台のひとつを侵食してしまうだろう——つまり、世界を理解したいというわれわれの欲望を、である。予測アルゴリズムは、相関関係の発見に神のごとく長けているかもしれないが、特色や現象の裏にある原因にはまったく無関心だ。しかし、因果を見出すこと——事物がなぜ、どうやってそのように動いているのかを、細心に解きほぐしていくこと——こそが、人間の理解の範囲を押し広げ、究極的に、知に対するわれわれの探求に意味をもたらすのである。確立をオートマティックに計算するだけで、専門的・社会的目的には充分だと思うようになったら、根拠を求め、知と驚きへと続く曲がりくねった道を果敢にたどって行こうとする欲望と動機を、われわれは失うか、少なくとも弱めてしまうかもしれない。1ミリセカンドかそこらでコンピュータが「答え」を吐き出してくれるというのに、なぜわざわざ?

 

篠儀直子 訳   

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第6章

スコットランドにあるアバディーン大学の人類学者、ティム・インゴールドは、旅行にはまったく異なる二つの種類があるという——「旅〔wayfaring〕」と「輸送〔transport〕」である。彼の説明によると、旅とは「われわれが世界に存在する最も根本的な方法」だ。風景に没入し、その肌触りと眺めに波長を合わせ、旅人は「行動と知覚とが緊密に結びついている動きの経験」を楽しむ。旅は「成長と発達の進行しつづけるプロセス、または自己刷新」となる。他方輸送は「本質的に目的地志向」である。「人生に沿っての」発見のプロセスというよりは、単に「人や品物を、その基本的性質に影響を与えないようなかたちで、場所から場所へと横切って運ぶ」ものだ。輸送の場合、旅行者はほんとうの意味で意義のある動きをすることがない。「むしろ彼は動かされ、みずからの身体の乗客になる」。

 

篠儀直子 訳  

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第6章

  テクノロジーを自己の一部にすることが容易であるがゆえ、われわれは迷走することもある。最も利益になるとは限らないかたちで、道具に力を与えてしまうことがあるのだ。われわれの時代の最大のアイロニーのひとつは、思考や記憶、スキルの発達において、身体的行動と感覚的知覚が重要な役割を果たしていると科学者たちが発見しつつあるまさにそのときに、われわれが世界で行動する時間は減少し、コンピュータ・スクリーンという抽象的媒体を通じて、生活や労働を行うようになっているということだ。われわれはみずからを脱身体化し、みずからの存在を感覚面から狭めている。汎用型コンピュータを作り出したわれわれは、倒錯的にも、道具を使って労働することの身体的喜びを、われわれから奪う道具を発明したのだ。

 

篠儀直子 訳   

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第7章

  新しいテクノロジーは、初期の段階では従順だ。その形態と用途は、設計した者の欲望だけでなく、使用する者たちの関心、社会全体の利害によっても形成されうる。だが、物理的インフラや商業的・経済的配列、個人的・政治的な規範や期待のなかにいったん根づいてしまうと、これを変化させることはとてつもなく難しくなる。この時点でテクノロジーは、社会体制の不可欠な構成要素となっている。慣性力を増し、道を進みつづける。個々のテクノロジー要素はもちろん時代遅れになるだろうが、それらは新しいものに置き換えられて、既存のオペレーションモードと、それに関連するパフォーマンスと成功の方法を、洗練し、延命させていく。

 

篠儀直子 訳  

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第8章

  視点次第で善にも悪にも見えるサイクルを、われわれは起動させた。アプリケーションやアルゴリズムへの依存を強めるにつれ、それらの補助なしに行動することはますますできなくなっている——われわれはスキルの抜け落ちだけでなく、注意力の抜け落ちも経験しつつある。それでさらにソフトウェアは必要不可欠なものになる。オートメーションがオートメーションを生むのだ。誰もがスクリーンを通じて生活していこうとするのだから、当然社会はみずからのルーティンや手続き(プロシージャ)を、コンピュータのルーティンやプロシージャに適合させていく。ソフトウェアが達成できないこと——計算で処理できず、したがってオートメーションに抵抗するもの——は、不必要なものに見えはじめる。

 

  われわれが慣れていけば、テクノロジーはわれわれに対してさらに力を行使するようになるのであり、その力が弱まることはない。われわれは、テクノロジーが生活に課している拘束に気づいていないかもしれないが、拘束は続いている。フランスの社会学者のブルーノ・ラトゥールが指摘するように、身近なテクノロジーの不可視性は「ある種の視覚的錯覚」である。テクノロジーを受け入れるためにわれわれが自分たちを作り変えているという事実を、それは覆い隠している。当初はわれわれ自身の特定の意図を達成するために使われていたツールが、そのツールの意図を、あるいはその製造主の意図を押しつけてくるようになる。ラトゥールは次のように書いている。「いかに単純なことであろうと、ある技術の使用がどれだけ最初の意図を置き換え、書き換え、変更し、ねじ曲げているかに気づかないとしたら、それは単純に、われわれが手段を変えることで目的を変えてしまったからであり、意思が滑り落ちてしまったせいで、初めに臨んだものとかけ離れたものを願うようになったからだ」。

 

篠儀直子 訳  

 

 

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第8章

  近代世界はいつも複雑だった。スキルや知識は専門領域へと断片化され、経済などのシステムが入り乱れ、全体を把握しようとするあらゆる試みは却下される。しかし現在、人類のこれまでの経験すべてをはるかに超えるレベルで、複雑さそのものがわれわれの目から隠されているのだ。巧妙にシンプルさを装うスクリーンの向こうに、ユーザーフレンドリーで摩擦のないインターフェイスも向こうに、それは隠されている。われわれは、政治学者ラングドン・ウィナーの言う「隠された電子的複雑性〔concealed electronic complexity〕」に囲まれている。「かつてありふれた経験の一部」であったもの、人と人のあいだの、人とものとのあいだの直接的相互作用のうちに表れていた「関係性やつながり」は、「抽象概念に包み隠され」てしまった。計り知れないテクノロジーが目に見えないテクノロジーになったとき、われわれは不安を抱くのが賢明だろう。そのとき、テクノロジーの前提や意図は、われわれの欲望や行動に浸透してしまっている。ソフトウェアに助けられているのか、制御されているのか、もはやわからない。ハンドルを握ってはいるものの、誰が運転しているのか確信できなくなっているのだ。

 

篠儀直子 訳    

フランコ・カッサーノ 「南の思想」序章

今日、尊大の罪を犯しているのは、世界には経済発展以外の使命はないと考える人々の方である。それ以外の人々は、自分を売り渡さないときには身を守ろうとするものだ、たとえそれが恐怖から生まれた狂暴な態度によってであっても。とすれば、まず一歩譲らなければならないのは、どちらなのだろうか。どちらがまず、相手の首を絞めるのをやめなければならないのだろうか。どちらがまず、それ以外にも人生のすごしかたがあることを認めなければならないのだろうか。それは手段の多様性と神の数限りない名前を、テクノロジーという名の一神教と取り替えてしまったこの世界のほうである。南の思想は声と道と尊厳の多様性をもって行われる抵抗の中に、経済発展の原始的な目には桎梏、限界、悪徳としか見えないものの中に、その存在の根を下ろしている。それは不動で、ゆっくりとしていて、多様な層をなしている生の様式に対する人間の親しみを守るものでなければならない。なぜならそこではインターネットですべてに繋がっているときよりも豊かな関係を取り結ぶことができるし、科学技術の堂々たる保護はそれに劣らず堂々たるさまざまな宗教による保護に歩を譲るのだ。高速歩行の単色のかわりに生が速度をゆるめるときに初めて感じることのできる多様な色彩を。気の短い「リアル・タイム」のかわりに他者との物理的、文化的な距たりの価値——他者の誇りの不可解さ、他者の理解の困難さ、他者に近づくことで生じるリスクの価値を。

 

ファビオ・ランベッリ 訳

フランコ・カッサーノ 「南の思想」第1章

  ゆっくりしなければならない。田園を行く古い列車や黒衣をまとった農婦のように。徒歩で進み、世界が魔法の力によって開かれるのを目の当たりにする人のように。なぜなら、歩くとは本のページをめくることなのに、急いでいるときは本の表紙しか目を留めることがないから。ゆっくりしなければならない。これまでにたどってきた道を眺めるために立ち止まることを愛で、メランコリーのように手足の力が疲労によって奪われるのを感じ、進むべき道を行き当たりばったりに決める人々の甘美なアナーキーをうらやまなければならない。
自分の道を行くことを、静寂のなかで一人じっと待つことを、そして時にはポケットのなかに自分の手だけしかないことの愉しみを、学ばなければならない。ゆっくり歩むとは、車で犬を轢かないで、道で出会った犬と遊ぶことであり、木々や曲がり角、電柱などに名前をつけ、ベンチを見つけることであり、水面に浮きあがる泡のように道行くままにあふれ出し、あまりに強すぎれば破裂して空に混じる、そんな想念を自身のうちに持つこと。それは不随意の思考、計画性のない思考、目的と意志の結果ではなく必然的かつ必要な思考、精神と世界との調和からおのずから浮かび上がってくる思考を呼び覚ますことである。

 

  ゆっくり歩むとは、哲学する人みなのことであり、始まりと終わりにより近いところ、世界の大いなる経験がまっとうされるところ、つまりそこにちょうどたどり着いたところだったり、別れを告げようとしているところだったりするところで、別のスピードを生きること。ゆっくり歩むとは、痛くせずに降りること、工業の興奮には溺れずに、すべての感覚に忠実に、横切ってゆく大地を自分のからだで味わうこと。ゆっくり歩む10キロは、人間をさまざまな計画に充ち満ちた孤独に溺れさせる大洋横断航路——消化できない貪欲さ——よりもはるかにいのちにあふれている。一匹の犬や、学校から帰る子供たちやバルコニーから顔を出す人をながめたり、夜更けにトランプで遊ぶ人々を見守っているときのほうが、飛行機で旅行したり、ファックスしたり、インターネットするときより、多くの他者を自身の裡に受け入れている。このゆっくりした思想が唯一の思想であり、もう一つの思想は、ただ機械を回してスピードを上昇させるだけの思想、無限にそれができると思い込んでいる思想である。機械の震えが強くなってきて、だれもその震動をコントロールできなくなってしまったとき、ゆっくりとした思想が速い思想からの避難場所を提供する。ゆっくりとした思想はもっとも古い耐震性の建築物なのだ。

 

ファビオ・ランベッリ 訳  

フランコ・カッサーノ 「南の思想」第3章

世界大のメディアの作用はある意味で貨幣の作用と似ている。もはや到達できない場所はなく、われわれはみな不可避的に、メディアを通じてのさまざまなコミュニケーション関係によって築かれた世界共同体の構成員になっている。貨幣と商業がローカルな自給自足の消費に基づいた共同体からわれわれを根こぎにしたのと同様に、メディアもわれわれをローカルな利害に基づいた地域主義から根こぎにする。われわれは、非常に遠くにいる人や出来事に近くなると同時に、ごく身近な人や出来事からは遠くなってしまった。この場合にも、場所なき帰属のおかげで昔からの帰属の絆が緩められてしまっている。


市場は人から根を失わせ(ポランニー『大転換』)、競争の危険きわまりない宇宙に投げ込む。われわれは競争という普遍宗教のなかに投げ入れられ、それぞれの文化、習慣、悪徳から根を抜かれ、スターティングブロックに足を乗せ、新しい出発へのコールを待つ。経済学者は、ホモ・クーレンス(走り続ける人間)の理論家であり、健康のためにわれわれは生きている間中、一日中走りつづけなければならないと繰り返す学識に富んだ医師である。われわれの健康は走った分によるのだから、街は暇なときにも走っていてそのことに喜びを感じている悲痛な人々で満ちている。息切れして顔を真っ赤にした人々の宗教、高層ビルの陰で汗をかきながら唱えるこのような朝夕の祈りは、われわれの精神のすべての毛穴をいっぱいにし、別の生活形態もあることさえ頭に思い浮かばなくしてしまう。


「根を失う」という表現(われわれはそれをシモーヌ・ヴェイユ「根を持つこと」に借りている)は、ある一つの現象の恐ろしい側面を表している。その現象は別の視点から見ると、ヨーロッパと西洋の大いなる自慢の種である。自由、がそれである。われわれの文化を貫いている境界への内在的緊張を生みだすのが、この「根を失うこと」である。すべての境界はわれわれを束縛し、すべての根はわれわれを繋ぎ止め、人間としての自由を窒息させる。知的・空間的移動の権利、あたかもわれわれがそれに所属しているかのようにわれわれを繋ぎ止めようとする絆から自由になる可能性、人類に属すること以外のいかなる属性も考慮することなく誰にでもホスピタリティーと尊厳を与えること、この個人の神聖-超越性は、それを産みだした西洋にとってはあまりにも偉大で重要なことなので、その別の側面をなかなか直視することができないのだ。


自由と「根を失うこと」は、自分たちが人間を束縛から解放した同じ一つの衝動から生まれた兄弟であることを発見する。


ファビオ・ランベッリ 訳