本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「人間の絆」

「だって、同じものを、そう何度も何度も読んで、なにになる?そういうのは、結局ただひどく手の込んだ怠惰というもんだぜ。」
「だが、それじゃ、君は、この深遠無比な思想家を、一読、ただちに理解できるだけの、すばらしい頭脳をもっているとでもいうんだね?」
「いや、僕は、なにもプラトーを理解したいとは思わない。僕は、批評家じゃない。僕が彼に興味をもつのは、なにも彼のためじゃなくて、ただ僕自身のためなんだ。」
「じゃ、なぜ本など読むんだ?」
「一つには、楽しみのため、つまり一つの習慣だからさ。煙草と同じことだよ、読まないと、気持がわるい。だが、もう一つは、自分を知るためでもある。僕は、本を読む時、ただ自分の眼だけで、読んでるようだな。だが、時々、いいか、僕にとって、ある意味をもったような一節、いや、おそらくは、ほんの一句だろうね、それにぶっつかる。これは、いわば僕の血肉になるのだ。僕は、書物の中から、僕の役に立つものだけを抜き取る。だから、幾度読んだところで、それ以上は、なんにも出て来はしないのだ。ねえ、君、僕には、こんな風に思えるんだが、つまり、人間ってものは、閉じた蕾みたいなもんなんだねえ。読んだり、したりすることで、それがどうなる、というようなことは、全然ない。ただ時に、その人にとって、ある特別な意味をもっているようなものがある。それが、花弁を開かせるのだ。一つずつ、花弁が開いてゆく、そして、ついに花が咲くのだ。」
  その比喩には、フィリップも、あまり満足しているわけではなかった。だが、それ以外には、彼が感じながら、しかもはっきりわからないある事を、説明する方法が、思いつかなかったのだ。

 

中野好夫 訳