本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

スベトラーナ・アレクシエービッチ 「チェルノブイリの祈り」第3章

  最初の数日、いろんな感情が混じりあっていました。いちばん強かった二つの感情を覚えています。恐怖といらだちです。すべては起こってしまったのに、情報はいっさいありませんでした。政府は沈黙し、医者はひとことも語ろうとしません。地区では州からの指示を持ち、州ではミンスクから、ミンスクではモスクワからの指示を待っていたのです。長い長い鎖。その先端ですべてを決定していたのは数人の人間です。私たちは身を守るすべがなかったのです。こういうことを当時いちばん強く感じていました。私たちの運命、何百万人もの運命を決めようとしていたのはほんの数人の人間なんです。またほんの数人の人間が私たちを殺すかもしれなかったのです。偏執狂でも、犯罪者でもない、原発のごくふつうの当直運転員が。それがわかったとき、私は非常にショックを受けました。チェルノブイリは、奈落への扉を開けたのです。コリマ〔強制収容所があるシベリアの地区の名〕よりも、アウシュビッツよりも、ホロコーストよりもはるかに深い、奈落への扉を。斧や弓を手にした人間も、てき弾筒やガス室を手にした人間も、私たちを皆殺しにすることはできませんでした。しかし原子力を手にした人間なら……。

 

松本妙子 訳