本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

フランコ・カッサーノ 「南の思想」第1章

  ゆっくりしなければならない。田園を行く古い列車や黒衣をまとった農婦のように。徒歩で進み、世界が魔法の力によって開かれるのを目の当たりにする人のように。なぜなら、歩くとは本のページをめくることなのに、急いでいるときは本の表紙しか目を留めることがないから。ゆっくりしなければならない。これまでにたどってきた道を眺めるために立ち止まることを愛で、メランコリーのように手足の力が疲労によって奪われるのを感じ、進むべき道を行き当たりばったりに決める人々の甘美なアナーキーをうらやまなければならない。
自分の道を行くことを、静寂のなかで一人じっと待つことを、そして時にはポケットのなかに自分の手だけしかないことの愉しみを、学ばなければならない。ゆっくり歩むとは、車で犬を轢かないで、道で出会った犬と遊ぶことであり、木々や曲がり角、電柱などに名前をつけ、ベンチを見つけることであり、水面に浮きあがる泡のように道行くままにあふれ出し、あまりに強すぎれば破裂して空に混じる、そんな想念を自身のうちに持つこと。それは不随意の思考、計画性のない思考、目的と意志の結果ではなく必然的かつ必要な思考、精神と世界との調和からおのずから浮かび上がってくる思考を呼び覚ますことである。

 

  ゆっくり歩むとは、哲学する人みなのことであり、始まりと終わりにより近いところ、世界の大いなる経験がまっとうされるところ、つまりそこにちょうどたどり着いたところだったり、別れを告げようとしているところだったりするところで、別のスピードを生きること。ゆっくり歩むとは、痛くせずに降りること、工業の興奮には溺れずに、すべての感覚に忠実に、横切ってゆく大地を自分のからだで味わうこと。ゆっくり歩む10キロは、人間をさまざまな計画に充ち満ちた孤独に溺れさせる大洋横断航路——消化できない貪欲さ——よりもはるかにいのちにあふれている。一匹の犬や、学校から帰る子供たちやバルコニーから顔を出す人をながめたり、夜更けにトランプで遊ぶ人々を見守っているときのほうが、飛行機で旅行したり、ファックスしたり、インターネットするときより、多くの他者を自身の裡に受け入れている。このゆっくりした思想が唯一の思想であり、もう一つの思想は、ただ機械を回してスピードを上昇させるだけの思想、無限にそれができると思い込んでいる思想である。機械の震えが強くなってきて、だれもその震動をコントロールできなくなってしまったとき、ゆっくりとした思想が速い思想からの避難場所を提供する。ゆっくりとした思想はもっとも古い耐震性の建築物なのだ。

 

ファビオ・ランベッリ 訳