本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  夢を鮮明にするために、わたしは、いかに現実の風景や実生活の人物が鮮明に見えるかを知らなければならない。というのは、夢想家の視覚は物を見る人の視覚とはちがうからだ。夢のなかでは、現実におけるように対象物の重要な面と重要でない面の両方に一様に視線を注ぐことはない。重要なものだけしか夢想家は見ない。ある対象物の真の現実はただその一部だけだ。残りは、空間に存在する権利と引き換えに物質世界に支払う重税だ。同様に、夢のなかでは手に触れられるほどの現実的なある種の現象が現実の空間にはありえない。現実の落日は測り知れないもので、束の間のものだ。夢の落日は固定され、永遠だ。筆のたつ者というのは、自分の夢をはっきりと見ることができ(実際そうしている)、夢で人生を見、人生を非物質的に見ることができ、幻想という写真機で人生の写真を撮ることのできる者だ。この写真機には、重いもの、有用のもの、限定されたものという光線は作用せず、心の感光板に黒く写る。

  わたしの場合、年来あまりに夢見ることで悪化したこの姿勢のために、いつも現実の夢の部分を見ている。わたしの物の見方が原因で、自分の夢に利用できないものをいつも物から排除してしまう。こうして、わたしは現実のなかに暮らしているときですら、いつも夢のなかに暮らしている。わたしのなかの落日を見ることも、外界の落日を見ることも、わたしには同じことになる、なぜなら、同じように見るから、わたしの見方は同じ型に作られているからだ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  自分に必要なものを望むのは人間的であり、必要ではないが望ましいものを望むのは人間的だ。病的とは、必要なものと望ましいもの同じように強く望み、パンのないのを悩むように、完全でないのを悩むことだ。まさしくロマンチシズムの弊害がこれで、まるで手に入れる方法があるかのように、月を欲しがることだ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  何事も深刻に受け止めず、自分の感覚以外の現実は確かなものだと考えず、われわれは自分の感覚のなかに逃げ込み、大きな未知の国々であるかのように、それを探検する。そして、もしもただ単に美学的観想だけでなく、その方法や結果を表現しようと精出して取り組んだとしても、われわれの書く散文や韻文は、他人に理解してもらおうとか他人を動かそうとかという意図はなく、自分が読書を娯しんでいるのを他人にもはっきり分からせようとして大声を上げて読書するようなものに過ぎないのだ。

  あらゆる作品に欠点はつきもので、われわれの美学的観想のなかでもっとも心もとないものは、自分の書いているものに関してであろう、ということも十分に承知している。しかしすべては不完全であり、さらにいっそう美しくなりえないほど美しい落日はなく、さらにいっそう穏やかな眠りを誘わないような軽い微風もない。したがって、山も彫像も一様に観想し、書物と同様に日々を娯しみ、とりわけ心のなかの実体に変えるために、すべてを夢見て、記述も分析する。これは一度完了すると、外界のものになり、さながら夕暮れとともに訪れきたったかのように、われわれはそれを娯しむことができるのだ。

 

高橋都彦 訳  

マーク・トウェイン「人間とは何か」

  結構、これがその法則だよ、よく憶えとくんだな。つまり、揺籃から墓場まで、人間って奴の行動ってのは、終始一貫、絶対にこの唯一最大の動機——すなわち、まず自分自身の安心感、心の慰めを求めるという以外には、絶対にありえんのだな。

 

中野好夫 訳  

J.L.ボルヘス「卑劣な男」

  友情は恋に比べても、またこの複雑な人生が見せる別の顔のどれ一つと比べても、負けないくらい神秘的なものだ。いつかふと思ったのだが、ただ一つ神秘的でないものがあるとすれば、幸福だ。それだけで自足するものだから。

 

鼓直 訳  

角幡唯介「極夜行」

  ところが光がないと、心の不安の源である空間領域におけるリアルな実体把握が不可能となる。周囲の山の様子が見えないと、当然、自分が今どこにいるか具体的に分からない。居場所が分からなければ、近い将来、正しくない場所に行ってしまったり家に帰れなかったりする危険があるわけで、その結果、具体的な未来の自分の行動が予測不可能となり、明日生きている自分をリアルに想像できなくなる。つまり地図の中で自分の居場所が分からないと、単に空間的な存立基盤を失うだけでなく、自分の将来がどうなるか分からなくなることになり時間的な存立基盤も同時に失うわけだ。つまり闇は人間から未来を奪うのである。

  闇に死の恐怖がつきまとうのは、この未来の感覚が喪失してしまうからではないだろうか。闇は人間の歴史のなかで常に冥界や死と関連付けられてきたが、その恐怖の本質は闇そのものにあるのではなく、自己の内部で漠然と構築されていた生存予測が闇によって消滅させられてしまうことにあるのだ。

 

角幡唯介「極夜行」

  この現実の経験世界に存在するあらゆる事物と同様、人間の存在もまた時間と空間の中にしっかりとした基盤をもつことで初めて安定する。安定するためには光が必要である。なぜなら光があれば自己の実体を周囲の風景と照らしあわせて、客観的な物体としてその空間の中に位置づけることができるからである。たとえば周囲の山の様子が見えれば、あの山とこの山の中間ぐらいに自分は立っているというふうに、今の自分の空間的位置づけを客観的かつリアルな実体として把握することができるだろう。そしてリアルに空間把握できれば、あの山とこの山の中間にいるから、今日はその間の川を下って海に釣りにでも行こう、などと未来の自分の行動を組み立てることもできる。このように具体的に未来予測できれば、少なくともその予測している期間の自分を生きている実体として想像できるわけだから、その間は死の不安から解放される。このように光があると人間の存立基盤は空間領域において安定し、同時に時間領域においても安定し、心安らかに落ち着くことができる。光は人間を見通す力と心の平安を与えるのである。それを人は希望という。つまり光とは未来であり、希望だ。

 

角幡唯介「極夜行」

  氷床行進中から延々とつづいてきた、この漠然とした、とりとめのない、まったく不確かな感じ。闇によって視覚情報が奪われることで、己の存在基盤が揺るがされる感じ。普段の生活で意識せずに享受しているがっちりとした揺るぎない世界から浮遊し、漂流している感じ。それらの感じから感じられる己の命の儚さや心もとなさ。ここにこそ極夜世界の本質はあるのかもしれない。

  歩きながら私はこんなふうに考えていた。

  人間が本能的にもつ闇にたいする恐怖は、よく言われるように原始時代に野生生物に襲われたときの記憶が集合意識に残っているから、とかそういうことでは多分なくて、単純に見えないことで己の在立する基盤が脅かされていることからくる不安感から生じるのではないだろうか。

 

角幡唯介「極夜行」

テクノロジーの本質は人間の身体機能の延長であり、あるテクノロジーが開発されると、人間は本来、己の身体にそなわっていた機能をそのテクノロジーに移しかえて作業を委託することができる。そうすると作業効率は高まり仕事は迅速になって社会は発展するが、一方で個人レベルに目を移すと、人間が自分の手を汚して作業する機会は減り、それまで作業プロセスをつうじて達成されていた外側の世界との接点が失われるので、外界を知覚できなくなる。昔は車を運転するには地図を見て周囲を確認するという作業が必要で、そのプロセスを踏むことで運転者は道をおぼえた。言いかえれば外界を自らの身体に取り込み世界化することができていた。ところがカーナビはこの作業プロセスをすべて省略するので、運転者は外界と関与する機会を失って道を覚えられなくなるのだ。便利になることと引き換えに人間は外界との接触点を失い、それまで知覚できていた外界がするりとこぼれ落ちて、その人間がもつ世界はまたひとつ貧弱なものとなるのである。

マルサス「人口論」第18章

  まさしく人生の厳しさが人間の才能を育てるのである。日常の経験によって、われわれはそれを確信できる。われわれは自活するため、あるいは家族を養うためにがんばらねばならないが、まさにその努力が自分の才能を開花させるのである。努力することがなければ、能力はずっと眠ったままであったろう。そして、よくいわれるとおり、人間はいままで出会ったことのない異常な事態にまきこまれると、それと取り組むのにふさわしい精神力ができていくものなのである。

マルサス「人口論」第18章

  人間の能力は、つねに働かせないとすぐに気が抜けて眠り込んでしまう。人間の精神構造について経験がわれわれに教えてくれたことによれば、肉体的な欲求から生じる活動意欲を人類が失ったならば、われわれは刺激の不足により、野獣と同じレベルに下落してしまうだろう。暇が増えたらみんな哲学者と同じレベルに上昇すると考えるのは、とんでもないことだ。自然に恵まれ、生産物がいちばん豊かに自生する地方の住民が、いちばん鋭い知性を備えているとはいえない。必要は発明の母というが、まことに偉大な真理である。人間の精神の高貴な営みも、肉体的な欲求を満たす必要から始まっていることが多い。欠乏こそが、しばしば詩人の想像力に翼を与え、歴史家の文章に流麗さを与え、学者の研究に鋭さを与える。たしかに現在では、さまざまの知的刺激や社会的関心によって精神が改善された人も多く、そういう人は肉体的な刺激がなくても、精神をふたたび眠り込ませたりしないだろう。しかし、人類の大半が肉体的な刺激を失ったら、かならず人類の全体が致命的な休眠状態に入り、人類の将来における改善の芽もことごとく切り取られることになろう。

マルサス「人口論」第15章

  すでに明らかなように、人口の原理により、十分な供給をうける人数よりも供給を必要としている人数のほうがかならず多い。金持ちのお余りで養える人数が三人だとしても、それを欲しがる人数は四人だったりするのだ。この四人から三人を選ぶと、金持ちは選んだ三人にいわば大きな恩を授けたことになる。選ばれた三人もこの金持ちにに大きな義理を感じ、自分たちは金持ちに養ってもらっていると思うにちがいない。金持ちは自分の権力を感じ、貧乏人は自分の従属を感じるだろう。この二つの考え方がいずれも人間の心に悪い影響をおよぼすことはよく知られている。過重な労働がよくないことについては、私もゴドウィン氏とまったく同意見だが、しかし、それでも私が思うに、従属に比べればまだしも害は少なく、人の心を堕落させるおそれも少ない。また、われわれが学んだすべての歴史がしっかりと示してくれるように、不動の権力をゆだねられた人間の心は荒廃しやすいのである。