本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「人間の絆」

社会の利益になるような行為を、社会は、美徳と呼び、そうでない行為を悪徳と呼ぶ。善といい、悪というが、畢竟、それ以上の何物でもないのだ。罪などという観念は、いやしくも自由な人間なら、それから解放されなければならない先入見なのだ。個人との闘いにおいて、社会は、三つの武器を、もっている、——法律と、世論と、良心とが、それだ。最初の二つは、術策でもって、立ち向かうことができる。術策だけが、強者に立ち向かう、弱者の武器なのだ。罪というのは、見つかるから罪なのだという通説は、なかなかうまいことをいっている。だが、良心というやつは、いわば城中の裏切者だ。各人の心の中で、社会のために闘い、個人をして、われから進んで、社会の犠牲たらしめ、敵の勝利を促進させるのだ。国家と、自覚した個人、この両者が、仲よく手を握るということは、明らかに、不可能であり、前者は、個人を、ただ己れの目的に利用するだけで、もし邪魔になれば、踏みにじり、もし忠実に仕えれば、勲章だの、年金だの、名誉だのという、恩賞を与えるのだ。

 

中野好夫 訳  

サマセット・モーム「人間の絆」

  彼を焼きつくす感情に、必ずしもフィリップは、喜んで溺れているのではなかった。人間万事、それはすべて、たまゆらのものであり、したがって、いつかは消えてなくなるものだとは、知っていた。その日を、彼は、どんなに首を長くして、待ち望んでいたことだろう。恋とは、彼の心臓の中の、いわば寄生虫みたいなものだった。彼の生血をもって、この憎むべき生物を、養っているのだ。彼の全存在を、すっかり吸いつくしてしまって、彼は、そのほかの何物にも興味が持てないのだった。前には、あのセント・ジェイムズ公園の美しさが、常に喜びであり、よく彼は、ベンチに坐って、影絵のように、空にひろがる木々の梢を眺めたものだった。まるで日本の版画のようだった。それからまた、舟着場や、川船の浮かぶあの美しいテムズ河の河景色に、それこそ掬みつくせない魔術を感じたこともある。四時に変るロンドンの空は、彼の心一ぱいに、楽しい空想を齎してくれた。だが、それが今は、彼にとっては、美は全くの無意味だった。ミルドレッドと離れていると、ただ退屈で、ソワソワするばかりだった。時には、絵でも見て、悲しみを紛らそうと思うこともあるが、たとえば国立美術館に入ってみたところで、ただ観光客のように、素通りするだけで、一枚の絵として、感動を与えてくれるものはなかった。かつては愛した、すべてそうしたものを、果してまたいつか、愛する日が来るのだろうか、と彼は疑った。前には、読書が、なによりの楽しみだった。だが、今では、一切書物も無意味。暇な時間は、病院のクラブの喫煙室で、ただわけもなく、夥しい雑誌のページをめくりながら、過した。この恋、それは拷問だった。今の彼自身の隷属状態を、彼は、たまらない気持で嫌悪した。彼は、囚人だった。そして、彼は、自由を望んだ。

 

中野好夫 訳  

サマセット・モーム「人間の絆」

今までは、ただ物の本で読んだだけだったが、今にしてはじめて、芸術というものは(というのは、自然を見る彼の眼には、いつも芸術があったからだ)、人の魂を、苦痛から解放してくれるものだということを、しみじみと知った。

 

中野好夫 訳  

サマセット・モーム「人間の絆」

「それからまた、美しいものというものは、それが次ぎ次ぎの時代の人間の胸に起す感情によって、だんだん豊かさを増すものなのだ。だからこそ、古いものが、新しいものよりも、美しいんだ。たとえば、あの「ギリシャ古瓶賦」(キーツの詩)は、書かれた時よりも、今の方が、よっぽど美しいのだ。というのは、この百年間に、多くの恋人たちが、あれを読み、また心に悩みをもった人たちが、あの中から慰めをえた、そのためなのだ。」

 

中野好夫 訳  

サマセット・モーム「人間の絆」

「だって、同じものを、そう何度も何度も読んで、なにになる?そういうのは、結局ただひどく手の込んだ怠惰というもんだぜ。」
「だが、それじゃ、君は、この深遠無比な思想家を、一読、ただちに理解できるだけの、すばらしい頭脳をもっているとでもいうんだね?」
「いや、僕は、なにもプラトーを理解したいとは思わない。僕は、批評家じゃない。僕が彼に興味をもつのは、なにも彼のためじゃなくて、ただ僕自身のためなんだ。」
「じゃ、なぜ本など読むんだ?」
「一つには、楽しみのため、つまり一つの習慣だからさ。煙草と同じことだよ、読まないと、気持がわるい。だが、もう一つは、自分を知るためでもある。僕は、本を読む時、ただ自分の眼だけで、読んでるようだな。だが、時々、いいか、僕にとって、ある意味をもったような一節、いや、おそらくは、ほんの一句だろうね、それにぶっつかる。これは、いわば僕の血肉になるのだ。僕は、書物の中から、僕の役に立つものだけを抜き取る。だから、幾度読んだところで、それ以上は、なんにも出て来はしないのだ。ねえ、君、僕には、こんな風に思えるんだが、つまり、人間ってものは、閉じた蕾みたいなもんなんだねえ。読んだり、したりすることで、それがどうなる、というようなことは、全然ない。ただ時に、その人にとって、ある特別な意味をもっているようなものがある。それが、花弁を開かせるのだ。一つずつ、花弁が開いてゆく、そして、ついに花が咲くのだ。」
  その比喩には、フィリップも、あまり満足しているわけではなかった。だが、それ以外には、彼が感じながら、しかもはっきりわからないある事を、説明する方法が、思いつかなかったのだ。

 

中野好夫 訳     

サマセット・モーム「人間の絆」

フィリップは迷った、そして自問した、もしこの道徳律が役に立たぬとすれば、いったいどんな道徳律が人生にはあるのだ、そしてまた、なぜ人は特に行動を選んでするのだろうかと。要するに、みんなそれぞれの感情にしたがって、行動しているにすぎないのだ。だが、そうなればまた感情には、それがよい場合もあれば、悪い場合もある。してみると、人生勝利に終るのも、敗北に終るのも、要するに運次第だという風にも思える。人生とは、いよいよ錯雑した混沌のように思え出した。人々は、なにかわからない力に駆り立てられて、ただ右往左往しているだけなのだ。その目的にいたっては、誰一人わかっているものはいないのだ。ただあくせくするために、あくせくしているにすぎないらしい。

 

中野好夫 訳  

サマセット・モーム「人間の絆」

彼は、ヘイウォードのこと、そしてまた二人が、はじめて相会った時の、彼に対する熱烈な賛嘆を思い出した。次ぎには、それが幻滅に変り、無関心に変り、ついには、単なる習慣と昔の思い出以外、なに一つ二人を結ぶもののなくなってしまった、あの長い推移のことを思った。考えて見ると、これもまた、この人生の不思議の一つだろう。——ある人間と、何ヶ月間も、文字通り顔を合せ、一度はほとんど彼なしには、人生を考えられないまでに、親しくなったものが、やがては、はっきり別れてしまっても、一向なんの痛痒も感じないという。つい昨日までは、なくてかなわなかった友が、今日はまるで要らないものになってしまうという。生活は、相変わらず同じようにつづき、しかも彼のいないのを、淋しいとさえ思わないのである。

 

中野好夫 訳    

サマセット・モーム「人間の絆」

クロンショーのことを考えながら、フィリップは、ふと彼が呉れたペルシャ絨毯のことを思い出した。人生の意味とはなにか、と訊いたフィリップの質問に対して、彼は、これが答えだと言った。フィリップは、突然、その解答に思い当った。彼は、クスリと一つ笑った。わかってみると、それは、まるであの謎遊びのあるものに似ていた。さんざん苦しんだ揚句、さて解答を教えられてみると、なぜこれしきのことがわからなかったのか、われながらわからない、ちょうどあれだった。答えは、あまりにも明白だった。人生に意味などあるものか。空間を驀進している一つの太陽の衛星としてのこの地球上に、それもこの遊星の歴史の一部分である一定条件の結果として、たまたま生物なるものが生れ出た。したがって、そうしてはじまった生命は、いつまた別の条件の下で、終りを告げてしまうかもわからない。人間もまた、その意義において他の一切の生物と少しも変りない以上、それは、創造の頂点として生れたものなどというのでは、もちろんなく、単に環境に対する一つの物理的反応として、生じたものにすぎない。フィリップは、例の東方の王様の話を思い出した。彼は、人間の歴史を知ろうと願って、ある賢者から、五百巻の書を与えられた。国事に忙しいので、彼は、もっと要約して来るようにと命じたのである。二十年後に、同じ賢者は、またやって来た。歴史は、わずか五十巻になっていた。だが、王は、すでに老齢で、とうていそんな浩澣な書物を、たくさん読む時間はないので、ふたたびそれを、要約するように命じた。また二十年が過ぎた。そして今では、彼自身も年老い、白髪になった賢者は、今度こそ国王所望の知識を、わずか一巻に盛った書物にして持参した。だが、その時、王はすでに、死の床に横たわっており、今はその一巻すら読む時間がなかった。結局、賢者は、人間の歴史を、わずか一行にして申し上げた。こうだった。人は、生れ、苦しみ、そして死ぬ、と。人生の意味など、そんなものは、なにもない。そして人間の一生もまた、なんの役にも立たないのだ。彼が生れて来ようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切なんの影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ。フィリップは、かつて少年時代、神への信仰という重荷が、その肩から除かれた時、それこそ心の底からの喜びを、感じたものだったが、今もまたその喜びに酔った。今こそ責任の最期の重荷が、取り除かれたような気がした。そしてはじめて、完全な自由を感じたのだった。彼の存在の無意味さが、かえって一種の力に変った。そして今までは、迫害されてばかりいるように思った冷酷な運命と、今や突然、対等の立場に立ったような気がして来た。というのは、一度人生が無意味と決れば、世界は、その冷酷さを奪われたも同然だったからだ。彼が、何をし、何をしなかったかなどということは、もはや一切問題ではなかった。失敗も言うに足りなければ、成功もまた無意味だった。彼自身は、ほんの束の間、この地上を占拠している、夥しい人間群の中にあって、もっとも取るに足りぬ一生物にすぎないのだ。そのくせ、混沌の中から、一切虚無の秘密をあばき出した点においては、全能者といってもよかった。熟した彼の想像の中に、さまざまの想念が、次ぎ次ぎと、湧き出るように浮んで来た。彼は、喜びと満足に充ちた、長い呼吸をついた。跳び上って、歌い出したいような気持だった。この数ヶ月、こんな幸福感を味わったことはなかった。

中野好夫

サマセット・モーム「人間の絆」

フィリップは思った、幸福への願いを捨てることによって、彼は、いわば最後の迷妄を脱ぎ捨てていたのだった。幸福という尺度で計られていた限り、彼の一生は、思ってもたまらないものだった。だが、今や人の一生は、もっとほかのものによって計られてもいい、ということがわかってからは、彼は、自然勇気の湧くのを覚えた。幸福とか、苦痛とか、そんなものは、ほとんど問題でない。それらは、彼の一生における、いろいろほかの事柄と一緒に、ただ意匠を複雑、精妙にするだけに、入って来るものであり、彼自身は、一瞬間、彼の生活のあらゆる偶然の上に、はるかに高く立ったような気持がして、もはや今までのように、それらによって動かされることは、完全にあるまいと思えた。たとえどんなことが起ろうと、それは、ただ模様の複雑さを加える動機が一つ、新しく加わったということにすぎない。そして人生の終りが近づいた時には、意匠の完成を喜ぶ気持、それがあるだけであろう。いわば一つの芸術品だ。そして、その存在を知っているのは、彼一人であり、たとえ彼の死とともに、一瞬にして、失われてしまうものであろうとも、その美しさには、毫も変りないはずだ。

 

中野好夫 訳  

須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」

人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。  

ボルヘス「ボルヘス詩集」(詩集「夜の歴史」より)

西暦641年、アレクサンドリア

夜と昼とその手の形を
初めて見たアダム以後、
人間たちは物語を作り、大地に
関わりのある、或いは夢の素材となるものの一切を、
石や、金属や、羊皮紙などに記録した。
ここに在るのがその結果、図書館である。
そこに収められた書物の数は
空の星のそれや、砂漠の
砂のそれを凌ぐという。図書館の
書物を読み尽くそうと願う人間は、
正気と無鉄砲な眼を失うことになりかねない。
ここに在るのは、過ぎ去った
時代の厖大な記憶である。剣と英雄たち、
代数の寡黙な記号、
運命を支配する惑星を
探索する知識、薬草類の
効能、魔除けに用いられる象牙、愛撫の名残りを留めた詩行、
神の孤独な迷宮の謎を
解読する学問、神学、
土の中に黄金を求める錬金術
偶像崇拝者の様々な絵図。
疑い深い連中に言わせると、図書館が焼ければ、
歴史が失われる。彼らは間違っている。
人間の徹宵は、無限の
書物を産んだのだ。そのすべての中の一冊さえ、
仮りに残らなかったとしても、再び
産み出していくのだ、各葉を、各行を、
ヘーラクレースの苦難と愛のことごとくを、
あらゆる手写本のあらゆる教訓を。
へジラの第一の世紀のことだが、
ペルシアの軍勢を打ち破り、地上に
イスラム教を広めたあのオマール、わたしは
部下の兵士らに対して、広大な
図書館に焼打ちを掛けるよう命じた。
消えることはないと分かっていたが。眠らぬ
神とその使徒モハメットの称えられんことを。

鼓直

ボルヘス「ボルヘス詩集」(詩集「他者は、自己」より)

わたしの読者に

あなたは不死身である。あなたの運命を
統べる神は、塵と化する定命を
与えなかったのだろうか。ヘーラクレイトスが
その面に移ろう時の象徴読み取った
あの川の流れこそ、あなたの不可逆の時間では
ないのか。日付と、町と、墓碑銘の
すでに刻まれた大理石とが待っている、
あなたがこれを読むことはないが。
他の人間もまた時の産んだ夢でしかない。
それは永遠の青銅でも輝く黄金でもない。
宇宙はあなたと同じように、変幻の神プローテウスだ。
影でしかないあなたは、時の旅路の果てに
待ち受けている宿命の影の中に消える。
知ってほしい、あなたもある意味で死者なのだ。

 

鼓直 訳    

ボルヘス「ボルヘス詩集」(詩集「他者は、自己」より)

羅針 

万物は〈言語〉の単語であり、
それを用いて〈何者〉かが、或いは〈何物〉かが、日夜、
世界史と呼ばれる無限の
たわごとを書き綴っている。その奔流に
カルタゴが、わたしが、きみが、彼が、
了得しがたいわたしの生が運ばれていく。
生というこの不可解な謎、偶然、暗号、
バベルの不和、などなどの一切が。

名辞の背後には、名付けえない何かが潜んでいる。
わたしは今日、その影がこの青く光る
軽い羅針に重くのしかかるのに気付いた。

羅針はひたすら海の涯てを指していたが、
しかしそれは、夢の中の時計を、
眠りながら身じろぎする小鳥を思わせるのだった。

 

鼓直 訳   

ボルヘス「ボルヘス詩集」(詩集「創造者」よりエピローグ)

わたしの身にはごく僅かなことしか起こらず、わたしはただ多くのものを読んだ。言い換えれば、ショーペンハウアーの思想、或いはイングランドの言葉の楽音以上に記憶に値することは、わたしの身にはほとんど起こらなかったのだ。一人の人間が世界を描くという仕事をもくろむ。長い歳月をかけて、地方、王国、山岳、内海、船、鳥、魚、部屋、器具、星、馬、人などのイメージで空間を埋める。しかし、死の直前に気付く、その忍耐づよい線の迷路は彼自身の顔をなぞっているのだと。

 

鼓直 訳