本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

私たちは苦しみと病を体験した。私たちは死によって多くの友人たちを失った。そして死は、私たちの窓を外から叩くだけでなく、私たちの内部でも仕事をし、その仕事をはかどらせた。かつてはあんなにあたりまえのものであった生は、ひとつの高価な、常に脅威にさらされている財産となった。あの当然私たちのものだと思っていた所有物は、期限不定の貸与物に変わってしまった。
けれど、解約告知期限の決まっていないこの貸与物は、けっしてその価値を失ったのではない。それが危険にさらされているという事実は、その価値を高めた。私たちは依然と同じように生命を愛している。そして人生には特に、素性のよいワインのように、年とともにコクと価値を減ずるどころか、かえって増大する愛情と友情があるので、私たちは人生に忠実でありつづけようと思うのである。

死に対して、私は昔と同じ関係をもっている。私は死を憎まない。そして死を恐れていない。私が、妻と息子たちに次いで誰と、そして何と最も多く、最も好んでつきあっているかを一度調べてみれば、それは死者だけであること、あらゆる世紀の、音楽家の、詩人の、画家の、死者であることがわかるだろう。彼らの本質はその作品の中に濃縮されて生きつづけている。それは私にとって、たいていの同時代人よりもはるかに現在的で、現実的である。そして私が生前知っていた、愛した、そして「失った」死者たち、私の両親ときょうだいたち、若い頃の友人たちの場合も同様なのである——彼らは、生きていた当時と同様に今日もなお私と私の生活に属している。私は彼らのことを思い、彼らを夢に見、彼らをともに私の日常生活の一部とみなす。このような死との関係は、それゆえ妄想でも美しい幻想でもなく、現実的なもので、私の生活に属している。私は無常についての悲しみをよく知っている。それを私はあらゆる枯れてゆく花を見るときに感じることができる。しかしそれは絶望をもたぬ悲しみである。


兄弟である死
私のところへもおまえはいつかやって来る
おまえは私を忘れない
そうすれば苦しみは終わり
鎖は断ち切れるのだ

まだおまえは縁遠くはるかなものに見える
愛する兄弟である死よ
おまえはひとつの冷たい星となって
私の苦境の上空に輝いている

けれどいつかおまえは近づいて来て
炎を上げて燃えるだろう——
来るがいい 愛する兄弟よ 私はここにいる
私を連れて行け 私はおまえのものだ


岡田朝雄 訳

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」はじめに

歴史分析と、ちょっと広い時間的な視野の助けを借りると、産業革命以来、格差を減らすことができる力というのは世界大戦だけだったことがわかる。

 

  富が集積され分配されるプロセスは、格差拡大を後押しする強力な力を含んでいる、というか少なくともきわめて高い格差水準を後押しする力を含んでいる。収斂の力も存在はするし、ある時期の一部の国ではそれが有効になるかもしれないが、格差拡大の力はいつ何時上手を取るやもしれない。これが21世紀初頭の現在どうやら起こっているらしい。今後数十年で、人口と経済双方の成長率は低下する見通しが高いので、このトレンドはなおさら懸念される。
  根本的な不等式r>g、つまり私の理論における格差拡大の主要な力は、市場の不完全性とは何ら関係ないということは念頭においてほしい。その正反対だ。資本市場が完全になればなるほど(これは経済学的な意味での話だ)、rがgを上回る可能性も高まる。この執念深い論理の影響に対抗できるような公共制度や政策は考えられる。たとえば、資本に対する世界的な累進課税などだ。

 

本書は論理的に言えば『21世紀の夜明けにおける資本』という題名にすべきだっただろうが、その唯一の目的は、過去からいくつか将来に対する慎ましい鍵を引き出すことだ。歴史は常に自分自身の道筋を発明するので、こうした過去からの教訓がどこまで実際に役立つかはまだわからない。私はそれを、その意義をすべて理解しているなどと想定することなしに、読者に提示しよう。

 

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳
r=資本収益率 g=成長率
*収斂に向かう主要な力として、知識や技能の普及が挙げられている。

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第I部 所得と資本

第1章 所得と産出
  まとめると、国際レベルでも国内レベルでも、収斂の主要なメカニズムは歴史体験から見て、知識の普及だ。言い換えると、貧困国が富裕国に追いつくのは、それが同水準の技術ノウハウや技能や教育を実現するからであって、富裕国の持ち物になることで追いつくのではない。知識の普及は天から降ってくる恩恵とはちがう。それは国際的な開放性と貿易により加速される(自給自足は技術移転を後押ししない)。何よりも、知識の普及はその国が制度と資金繰りを動員し、人々の教育や訓練への大規模投資を奨励して、各種の経済アクターがあてにできるような、安定した法的枠組みを保証するようにできるかどうかにかかっている。だからこれは、正当性のある効率よい政府が実現できるかどうかと密接に関連しているのだ。簡単に言うと、これが世界の成長と国際的な格差について歴史が教えてくれる主要な教訓となる。

 

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳 

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第II部 資本/所得比率の動学

第6章 21世紀における資本と労働の分配より
  第一に、歴史的な低成長レジームへの回帰、特にゼロあるいはマイナスの人口増加は、論理的に資本の復活をもたらす。低成長社会が非常に大きな資本ストックを再構築するという傾向はβ=s/gの法則で表され、これをまとめるなら、停滞した社会では過去に蓄積された富が、自然とかなりの重要性を持つということだ。
β=資本/所得比率 s=貯蓄率 g=成長率

 

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳 

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第III部 格差の構造

第7章 格差と集中
  実際に所得格差を比較すると、最初に気づく規則性は、資本の格差が、労働所得の格差よりも常に大きいということだ。資本所有権(そして資本所得)の分配は、常に労働所得の分配よりも集中している。
  この規則性はデータが入手可能なあらゆる国のあらゆる時代に例外なく見られ、しかもその現れ方は常に相当強烈だということだ。その差がいかに大きいかをざっとつかんでもらうと、労働所得分布の上位10パーセントが、通常は全労働所得の25-30パーセントを稼いでいるのに対し、資本所得分布の上位10パーセントは、常にすべての富の50パーセント以上(社会によっては90パーセント以上)を所有している。おそらくさらに驚くべきこととして、賃金分布の下位50パーセントは全労働者のかなりの部分をもらっているのに対し、富の分布の下位50パーセントが所有しているものは、まったくのゼロか微々たるものだ。労働所得の格差は通常穏やかで小さく、ほとんど妥当とさえ言える。これに比べて、資本に関する格差は常に極端だ。

 

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第III部 格差の構造

第10章 資本所有の格差
伝統的農耕社会と、第一次世界大戦以前のほぼすべての社会で富が超集中していた第一の原因は、これらが低成長社会で、資本収益率が経済成長率に比べ、ほぼ常に著しく高かったことだ。
たとえば成長率が年約0.5-1パーセントと低い世界を考えよう。18、19世紀以前はどこでもその程度の成長率だった。資本収益率は、一般的には年間4、5パーセントほどなので、成長率よりもかなり高い。具体的には、たとえ労働所得がまったくなくても、過去に蓄積された富が経済成長よりもずっと早く資本増加をもたらすわけだ。


経済成長は人類の歴史の大半を通じてほぼゼロだった。人口動態を経済成長と組み合わせれば、古代から17世紀までの長い間、年間経済成長率は0.1-0.2パーセント以下だったと言える。多くの歴史的不確実性はあるが、資本収益率が常にこれより高かったのはたしかだ。年間資本収益率の長期的中央値は4-5パーセントだ。特に多くの伝統的農耕社会では、これは土地からの収益率となる。もしももっと低い純粋な資本収益率の推定値を受け入れたとしても、最低限の資本収益率として少なくとも年間2-3パーセントは残り、依然として0.1-0.2パーセントよりはずっと大きい。このように、人類は歴史の大半を通じて、資本収益率は常に生産(そして所得)成長率の少なくとも10倍から20倍は大きかったというのは、避けられない事実だ。


税引後の純粋な資本収益率は1913-1950年には1-1.5パーセントにまで低下し、経済成長率よりも低くなった。この新たな状況は例外的に高い経済成長率によって1950-2012年まで続いた。結果的に、20世紀には財政的、非財政的ショックの両方によって、歴史上初めて、純粋な資本収益率が経済成長率よりも低いという事態が生まれた。状況の連鎖(戦時の破壊、1914-1945年のショックが可能にした累進課税政策、第二次世界大戦後の30年間の例外的成長)が、歴史上類を見ない事態を生み出し、それがほぼ1世紀近く続いた。でもどの指標を見ても、この状況の終わりは近いようだ。国家間の税制競争がその論理的帰結まで進むなら——実際そうなるかもしれない——rとgの差は21世紀のどこかの時点で、19世紀に近い水準に戻るだろう。
*r=資本収益率 g=成長率


資本収益率が常に際立って成長率よりも高いという事実は、富の不平等な分配を強力に後押ししている。


第11章 長期的に見た能力と相続
私が本書で強調してきた格差を拡大させる基本的な力は、市場の不完全性とは何の関係もなく、市場がもっと自由で競争的になっても消えることのない、不等式r>gにまとめられる。制限のない競争によって相続に終止符が打たれ、もっと能力主義的な世界に近づくという考えは、危険な幻想だ。普通選挙権の到来と財産に基づいた投票資格が終わったことで、金持ちによる政治の合法的な支配は終わった。でもそれが、不労所得生活者社会を生み出しかねない経済力を無効にしたわけではないのだ。


山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」第III部 格差の構造

第12章 21世紀における世界的な富の格差
  インフレの主な影響は、資本の平均収益を減らすことではなく、それを再分配することなのだ。そしてインフレの影響は複雑で多次元的だが、圧倒的多数の証拠が示している通り、インフレが招く再分配は、主に最も裕福でない人には不利益に、最も裕福な人には利益になる。よって一般に望ましい方向とは正反対と言える。あらゆる人が資産管理に費やす時間を増やすという点で、インフレが純粋な資本収益をわずかに減らす可能性があるのはたしかだ。この歴史的変化は、非常に長期的な資本の減価償却率の増加に似ていると言えるかもしれない。この増加には、投資判断や、古い資産と新しい資産の入れ替えが、もっと頻繁に必要になるのだ。どちらの場合も今日では、所定の収益を得るために少し多く働かなければならない。だから資本はもっと「ダイナミック」になった。だがこれらはレントと戦う方法としては比較的まわりくどく、非効率的だ。これらの原因による純粋な資本収益のわずかな減少は、資本収益の格差拡大よりもはるかに規模が小さいことが実証されているからだ。特に、巨額の財産にはほとんど脅威を与えない。
  インフレはレントを排除しない。それどころか、おそらく資本の分配の格差をさらに拡大するのに一役買うだろう。
  累進資本課税のほうが、民主的透明性と、現実の有効性の両方において、もっと適切な政策だ。

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

*第Ⅳ部 15章16章で、累進資本課税とインフレによる富の再分配について詳細に議論されている。

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」おわりに

  本研究の総合的な結論は、民間財産に基づく市場経済は、放置するなら、強力な収斂の力を持っているということだ。これは特に知識と技能の拡散と関連したものだ。でも一方で、格差拡大の強力な力もそこにはある。これは民主主義社会や、それが根ざす社会正義の価値観を脅かしかねない。
  不安定化をもたらす主要な力は、民間資本収益率rが所得と産出の成長率gを長期にわたって大幅に上回り得るという事実と関係がある。
  不等式r>gは、過去に蓄積された富が産出や賃金より急成長するということだ。この不等式は根本的な論理矛盾を示している。事業者はどうしても不労所得者になってしまいがちで、労働以外の何も持たない人々に対してますます支配的な存在となる。いったん生まれた資本は、産出が増えるよりも急速に再生産する。過去が未来を食い尽くすのだ。

  正しい解決策は資本に対する年次累進税だ。これにより果てしない不平等スパイラルを避けつつ、一次蓄積の新しい機会を作る競争とインセンティブは保持される。

  むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

*金持ちは簡単に資産を国外に移せるし、非公開株式などを含めあらゆる資産に課税しない限り累進資本税が無意味であることが、第Ⅳ部で論じられている。

Luis Sepúlveda "Historia de una gaviota y del gato que le enseñó a volar"

—Todos te queremos, Afortunada. Y te queremos porque eres una gaviota, una hermosa gaviota. No te hemos contradicho al escucharte graznar que eres un gato porque nos halaga que quieras ser como nosotros, pero eres diferente y nos gusta que seas diferente. No pudimos ayudar a tu madre pero a ti sí. Te hemos protegido desde que saliste del cascarón. Te hemos entregado todo nuestro cariño sin pensar jamás en hacer de ti un gato. Te queremos gaviota. Sentimos que también nos quieres, que somos tus amigos, tu familia, y es bueno que sepas que contigo aprendimos algo que nos llena de orgullo:aprendimos a apreciar, respetar y querer a un ser diferente. Es muy fácil aceptar y querer a los que son iguales a nosotros, pero hacerlo con alguien diferente es muy difícil y tú nos ayudaste a conseguirlo. Eres una gaviota y debes seguir tu destino de gaviota. Debes volar. Cuando lo consigas, Afortunada, te aseguro que serás feliz, y entonces tus sentimientos hacia nosotros y los nuestros hacia ti serán más intensos y bellos, porque será el cariño entre seres totalmente diferentes.

(ルイス・セプルベダ 「カモメに飛ぶことを教えた猫」)

 

J.R.ヒメネス 「プラテーロとわたし」日食

  ついさっきまで、複雑な金の光を放って、あらゆるものを二倍にも三倍にも、いや百倍にも、大きく美しく見せていた太陽が、たそがれのゆるやかな変化もなしにかくれてしまうと、すべては金から銀へ、銀から銅へ、きゅうにとり変えられたように、ひっそりとしずんでしまった。町は、なんの値うちもない、さびだらけの銅貨のようになってしまった。通りも、広場も、塔も、丘の小径も、なんともの悲しげで、何と小さくなったことだろう!
ずっと下の裏庭にいるプラテーロも、紙を切り抜いた作りもののような、まったく別のロバに見えた……

 

伊藤武好 伊藤百合子 訳

J.R.ヒメネス 「プラテーロとわたし」夕景

  丘の頂き。そこに落日がある。落日はむらさきいろに染まり、みずからの光の矢で傷つき、からだじゅうから血を流しているようだ。みどりの松林は入り日を受けて、ほんのりと赤く彩られている。まっかな、すきとおった小さな花や草が、しめりけのある明るいかおりを放って、静かなひとときを満たしている。
  私はたそがれのなかで、うっとりとわれを忘れる。プラテーロは、黒い目を、落日で真紅色に染め、べに色やバラ色やすみれ色の水たまりの方へ、静かに歩いていく。ロバは、水たまりの鏡の中にそっと口を沈める。彼が口をふれると、鏡はとけて流れるようにみえる。そして血のように濃い水が、彼の大きなのどへ惜しげもなく吸いこまれていく。
それはありふれた風景である。しかし、そのひとときはその風景を、なんとも不思議な、いまにも崩れそうで、 しかも永遠に忘れられないものに一変してしまう。そのひととき、私たちは、住む人もいない宮殿に、そっと踏みいって行くような思いがする……
夕暮れは、夕暮れの彼方へ拡がっていく。こうして、《永遠》につながってしまった時間は、無限で、平和で、はかりしれない……
——さあでかけよう。プラテーロ……

 

伊藤武好 伊藤百合子 訳

J.R.ヒメネス 「プラテーロとわたし」小川

  おまえはどうか知らないが、幼い頃の空想というものは、なんとすばらしい魅力だろうね、プラテーロ!それはみな、たのしい変化を見せながら、遠ざかり、また近づいてくる。心に浮かぶ幻想の絵のように、すべてが見えたかと思うと、また見えなくなる……
  そして、人びとは人生の裏も表も眺めながら、それでいて、なかば盲目のように歩み、ときどき心の暗がりの中に、人生の苦しい思い出を捨てているのだ。あるいはまた、太陽に向かって開く花のように、明るく照らし出された塊から詩を生み出しながら、ふたたび思い出すこともできない真実の岸辺に、その詩をおきわすれているのだ。

 

伊藤武好 伊藤百合子 訳

J.R.ヒメネス 「プラテーロとわたし」清らかな夜

  私の心にひそむ力は、なんと私を高めてくれるのだろう!私はまるで、自由の鐘をかざした素朴な石の塔になったようだ。ごらん!空いっぱいの星を!あんまりたくさんあるので、目がくらんでしまう。大空は、子どもたちの世界のようだ。それは理想の愛に光りかがやくロザリオの祈りを、地上に向ってささやいている。
プラテーロ、プラテーロ!孤独で、明るく、きびしい夜、高く澄みきった一月のこの清らかな夜のために、私はいのちを捧げてもいい。むろんおまえだって、そうしてくれるだろうと私は思っている。

 

伊藤武好 伊藤百合子 訳

エンデ全集15 「オリーブの森で語りあう」(対談集)

十六世紀はじめには、世界を客観と主観に二分するのは、なにか特定の研究をすすめるための、まったくのフィクションだということが、まだみんなの意識にのこっていた。ところが、時代がすすむにつれて、この二元論はフィクションにもとづいているという点が、すっかり忘れられてしまったようだ。今日ではほとんどの人が、客観的な世界と主観的な世界があるということを信じて疑わない。それどころか事態はもっと深刻で、「客観的」という言葉が「正しい」の同義語にされてしまっているんだ。

 

十六世紀になって、すべてを量でとらえようとする思考が登場する。数えられるもの、計測、計量できるものだけが、正しいとされ、最後には、質にかんする現実までもがすっかり否定されてしまった。なにしろ質というものは、量的な思考ではとらえきれないからね。美というものは、たしかに測ることはできないが、にもかかわらず存在はしている。しかし美の知覚は、知覚する人と切りはなすことができない。とすると外もなければ内もないということになる。
(エンデ)

 

丘沢静也 訳

V.E.フランクル 「夜と霧」死の蔭の谷にて

この瞬間、眺めているわれわれは嫌悪、戦慄、同情、昂奮、これらすべてをもはや感じることができないのである。苦悩する者、病む者、死につつある者、死者——これらすべては数週の収容所生活の後には当り前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである。

 

無感覚、感情の鈍麻、内的な冷淡と無関心……収容所囚人の心理的反応の第二の段階のこれらの特徴は、彼をまた間もなく毎日の、また毎時間の殴打に対しても無感覚にさせた。この無感動こそ、当時囚人の心をつつむ最も必要な装甲であった。

 

霜山徳爾 訳