読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

トマ・ピケティ 「21世紀の資本」おわりに

  本研究の総合的な結論は、民間財産に基づく市場経済は、放置するなら、強力な収斂の力を持っているということだ。これは特に知識と技能の拡散と関連したものだ。でも一方で、格差拡大の強力な力もそこにはある。これは民主主義社会や、それが根ざす社会正義の価値観を脅かしかねない。
  不安定化をもたらす主要な力は、民間資本収益率rが所得と産出の成長率gを長期にわたって大幅に上回り得るという事実と関係がある。
  不等式r>gは、過去に蓄積された富が産出や賃金より急成長するということだ。この不等式は根本的な論理矛盾を示している。事業者はどうしても不労所得者になってしまいがちで、労働以外の何も持たない人々に対してますます支配的な存在となる。いったん生まれた資本は、産出が増えるよりも急速に再生産する。過去が未来を食い尽くすのだ。

  正しい解決策は資本に対する年次累進税だ。これにより果てしない不平等スパイラルを避けつつ、一次蓄積の新しい機会を作る競争とインセンティブは保持される。

  むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。

山形浩生 守岡桜 森本正史 訳

*金持ちは簡単に資産を国外に移せるし、非公開株式などを含めあらゆる資産に課税しない限り累進資本税が無意味であることが、第Ⅳ部で論じられている。

Luis Sepúlveda "Historia de una gaviota y del gato que le enseñó a volar"

—Todos te queremos, Afortunada. Y te queremos porque eres una gaviota, una hermosa gaviota. No te hemos contradicho al escucharte graznar que eres un gato porque nos halaga que quieras ser como nosotros, pero eres diferente y nos gusta que seas diferente. No pudimos ayudar a tu madre pero a ti sí. Te hemos protegido desde que saliste del cascarón. Te hemos entregado todo nuestro cariño sin pensar jamás en hacer de ti un gato. Te queremos gaviota. Sentimos que también nos quieres, que somos tus amigos, tu familia, y es bueno que sepas que contigo aprendimos algo que nos llena de orgullo:aprendimos a apreciar, respetar y querer a un ser diferente. Es muy fácil aceptar y querer a los que son iguales a nosotros, pero hacerlo con alguien diferente es muy difícil y tú nos ayudaste a conseguirlo. Eres una gaviota y debes seguir tu destino de gaviota. Debes volar. Cuando lo consigas, Afortunada, te aseguro que serás feliz, y entonces tus sentimientos hacia nosotros y los nuestros hacia ti serán más intensos y bellos, porque será el cariño entre seres totalmente diferentes.

(ルイス・セプルベダ 「カモメに飛ぶことを教えた猫」)

 

J.R.ヒメネス 「プラテーロとわたし」日食

  ついさっきまで、複雑な金の光を放って、あらゆるものを二倍にも三倍にも、いや百倍にも、大きく美しく見せていた太陽が、たそがれのゆるやかな変化もなしにかくれてしまうと、すべては金から銀へ、銀から銅へ、きゅうにとり変えられたように、ひっそりとしずんでしまった。町は、なんの値うちもない、さびだらけの銅貨のようになってしまった。通りも、広場も、塔も、丘の小径も、なんともの悲しげで、何と小さくなったことだろう!
ずっと下の裏庭にいるプラテーロも、紙を切り抜いた作りもののような、まったく別のロバに見えた……

 

伊藤武好 伊藤百合子 訳

J.R.ヒメネス 「プラテーロとわたし」夕景

  丘の頂き。そこに落日がある。落日はむらさきいろに染まり、みずからの光の矢で傷つき、からだじゅうから血を流しているようだ。みどりの松林は入り日を受けて、ほんのりと赤く彩られている。まっかな、すきとおった小さな花や草が、しめりけのある明るいかおりを放って、静かなひとときを満たしている。
  私はたそがれのなかで、うっとりとわれを忘れる。プラテーロは、黒い目を、落日で真紅色に染め、べに色やバラ色やすみれ色の水たまりの方へ、静かに歩いていく。ロバは、水たまりの鏡の中にそっと口を沈める。彼が口をふれると、鏡はとけて流れるようにみえる。そして血のように濃い水が、彼の大きなのどへ惜しげもなく吸いこまれていく。
それはありふれた風景である。しかし、そのひとときはその風景を、なんとも不思議な、いまにも崩れそうで、 しかも永遠に忘れられないものに一変してしまう。そのひととき、私たちは、住む人もいない宮殿に、そっと踏みいって行くような思いがする……
夕暮れは、夕暮れの彼方へ拡がっていく。こうして、《永遠》につながってしまった時間は、無限で、平和で、はかりしれない……
——さあでかけよう。プラテーロ……

 

伊藤武好 伊藤百合子 訳

J.R.ヒメネス 「プラテーロとわたし」小川

  おまえはどうか知らないが、幼い頃の空想というものは、なんとすばらしい魅力だろうね、プラテーロ!それはみな、たのしい変化を見せながら、遠ざかり、また近づいてくる。心に浮かぶ幻想の絵のように、すべてが見えたかと思うと、また見えなくなる……
  そして、人びとは人生の裏も表も眺めながら、それでいて、なかば盲目のように歩み、ときどき心の暗がりの中に、人生の苦しい思い出を捨てているのだ。あるいはまた、太陽に向かって開く花のように、明るく照らし出された塊から詩を生み出しながら、ふたたび思い出すこともできない真実の岸辺に、その詩をおきわすれているのだ。

 

伊藤武好 伊藤百合子 訳

J.R.ヒメネス 「プラテーロとわたし」清らかな夜

  私の心にひそむ力は、なんと私を高めてくれるのだろう!私はまるで、自由の鐘をかざした素朴な石の塔になったようだ。ごらん!空いっぱいの星を!あんまりたくさんあるので、目がくらんでしまう。大空は、子どもたちの世界のようだ。それは理想の愛に光りかがやくロザリオの祈りを、地上に向ってささやいている。
プラテーロ、プラテーロ!孤独で、明るく、きびしい夜、高く澄みきった一月のこの清らかな夜のために、私はいのちを捧げてもいい。むろんおまえだって、そうしてくれるだろうと私は思っている。

 

伊藤武好 伊藤百合子 訳

エンデ全集15 「オリーブの森で語りあう」(対談集)

十六世紀はじめには、世界を客観と主観に二分するのは、なにか特定の研究をすすめるための、まったくのフィクションだということが、まだみんなの意識にのこっていた。ところが、時代がすすむにつれて、この二元論はフィクションにもとづいているという点が、すっかり忘れられてしまったようだ。今日ではほとんどの人が、客観的な世界と主観的な世界があるということを信じて疑わない。それどころか事態はもっと深刻で、「客観的」という言葉が「正しい」の同義語にされてしまっているんだ。

 

十六世紀になって、すべてを量でとらえようとする思考が登場する。数えられるもの、計測、計量できるものだけが、正しいとされ、最後には、質にかんする現実までもがすっかり否定されてしまった。なにしろ質というものは、量的な思考ではとらえきれないからね。美というものは、たしかに測ることはできないが、にもかかわらず存在はしている。しかし美の知覚は、知覚する人と切りはなすことができない。とすると外もなければ内もないということになる。
(エンデ)

 

丘沢静也 訳

V.E.フランクル 「夜と霧」死の蔭の谷にて

この瞬間、眺めているわれわれは嫌悪、戦慄、同情、昂奮、これらすべてをもはや感じることができないのである。苦悩する者、病む者、死につつある者、死者——これらすべては数週の収容所生活の後には当り前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである。

 

無感覚、感情の鈍麻、内的な冷淡と無関心……収容所囚人の心理的反応の第二の段階のこれらの特徴は、彼をまた間もなく毎日の、また毎時間の殴打に対しても無感覚にさせた。この無感動こそ、当時囚人の心をつつむ最も必要な装甲であった。

 

霜山徳爾 訳

 

V.E.フランクル 「夜と霧」非情の世界に抗して

  人間が強制収容所において、外的にのみならず、その内面生活においても陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい内面化への傾向があったということが述べられねばならない。元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘らず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ、繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。

  若干の囚人において現われる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、われわれの環境とその全くすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。アウシュヴィッツからバイエルンの支所に鉄道輸送をされる時、囚人運搬車の鉄格子の覗き窓から、丁度頂きが夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれのうっとりと輝いている顔を誰かが見たとしたら、その人はそれが、いわばすでにその生涯を片づけられてしまっている人間の顔とは、決して信じ得なかったであろう。彼等は長い間、自然の美しさを見ることから引き離されていたのである。そしてまた収容所においても、労働の最中に一人二人の人間が、自分の傍で苦役に服している仲間に、丁度彼の目に映った素晴らしい光景に注意させることもあった。たとえばバイエルンの森の中で(そこは軍需目的のために秘密の巨大な地下工場が造られることになっていた)、高い樹々の幹の間を、まるでデューラーの有名な水彩画のように、丁度沈み行く太陽の光が射し込んでくる場合の如きである。あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘らず日没の光景を見逃させまいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。
  そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上る雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化する雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃える空が映っていた。感動の沈黙が数分間続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞えた。

霜山徳爾 訳 

V.E.フランクル 「夜と霧」苦悩の冠

経験的には収容所生活はわれわれに、人間は極めてよく「他のようにもでき得る」ということを示した。人が感情の鈍麻を克服し刺戟性を抑圧し得ること、また精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、外的にも内的にも存し続けたということを示す英雄的な実例は少くないのである。強制収容所を経験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ——彼等は、人が強制収容所の人間から一切をとり得るかもしれないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているのである。「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。その内的決断とは、人間からその最も固有なもの——内的自由——を奪い、自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。

 

霜山徳爾 訳

カミュ 「異邦人」第2部

  そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟くびをつかんだ。喜びと怒りのいり混じったおののきとともに、彼に向かって、心の底をぶちまけた。君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本も重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手は空っぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は?私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。そのわけを私は知っている。君もまたそのわけを知っている。これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、私は未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へ立ち上ってくる。その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。

 

窪田啓作 訳
*彼→死刑宣告をされ刑の執行を待つムルソー(=私)を訪ねた司祭

J.D.サリンジャー 「ライ麦畑でつかまえて」

続いて僕は、みんながよってたかって僕を墓地の中に押しこめて、墓石に名前を彫ったりなんかすることを考えた。まわりはみんな死んだ奴らだからな。いやあ、人間、死ぬと、みんなが本当にきちんと世話をしてくれるよ。僕が死んだときには、川かなんかにすててくれるくらいの良識をもった人が誰かいてくれないかなあ、心からそう願うね。墓地の中に押しこめられるのだけはごめんだな。日曜日にはみんながやってきてさ、ひとの腹の上に花束をのっけたり、いろんなくだんないことをやるだろう。死んでから花をほしがる奴なんているもんか。一人もいやしないよ。

 

野崎孝 訳 

J.D.サリンジャー 「ライ麦畑でつかまえて」

多くの人たちが、ことに、この病院にいる精神分析の先生なんかがそうだけど、今度の九月から学校に戻ることになったら、一生懸命勉強するかって、始終僕にきくんだな。そんなの、実に愚問だと思うんだ。だって、実際にやるまでは、どんなようなことになるか、わかる方法があるかね?答えは否だよ。思うだけなら、勉強しようと思うよ。でもわかりゃしないよね。だから、そんなのは絶対に愚問だよ。

 

野崎孝 訳 

ウンベルト・サバ 「ウンベルト・サバ詩集」

ミラノ


石と霧のあいだで、ぼくは
休日を愉しむ。大聖堂の
広場に憩う。星の
かわりに
夜ごと、ことばに灯がともる。

 

人生ほど、
生きる疲れを癒してくれるものは、ない。

 

須賀敦子

 

 

サン=テグジュペリ 「人間の土地」僚友

  何ものも、死んだ僚友のかけがえには絶対になりえない、旧友をつくることは不可能だ。何ものも、あの多くの共通の思い出、ともに生きてきたあのおびただしい困難な時間、あのたびたびの仲違いや仲直りや、心のときめきの宝物の貴さにはおよばない。この種の友情は、二度とは得がたいものだ。樫の木を植えて、すぐその葉かげに憩おうとしてもそれは無理だ。

  これが人生だ。最初ぼくらはまず自分たちを豊富にした、多年ぼくらは木を植えてきた、それなのに、やがて時間がこの仕事をくずし、木を切り倒す年が来た。僚友たちが一人ずつぼくらから彼らの影を引き上げる。かてて加えて、ぼくらの喪に、今日以後、人知れぬ老いの嘆きが来て加わる。

 

堀口大学