本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

モーム「サミング・アップ」

  その一方、二度読んだ本はほとんどない。一度読んだだけでは全てを味わえない書物がたくさんあるのは知っているが、一度読んだときに吸収できるものは全て吸収したのであり、それこそが、たとえ細部は忘れても永遠の財産として自分に残るのだ。世の中には同じ本を繰り返し読む人もいる。こういう連中は目で読むに過ぎないのであって、感性は用いているはずがない。機械的な読み方で、チベット人が祈り車を回しているようなものだ。むろん、無害な作業であるが、知的な作業だと思うのは誤解というものである。

 

行方昭夫 訳

モーム著「人間の絆」の中に、同じ本を繰り返し読む友人に対して、それはひどく手の込んだ怠慢だ、と批判する人物が登場する。  

モーム「サミング・アップ」

  私は皮肉屋だと言われてきた。人間を実際よりも悪者に描いていると非難されてきた。そんなことをしたつもりはない。私のしてきたのは、ただ多くの作家が目を閉ざしているような人間の性質のいくつかを、際立たせただけのことである。人間を観察して私が最も感銘を受けたのは、首尾一貫性の欠如していることである。首尾一貫している人など私は一度も見たことがない。同じ人間の中にとうてい相容れないような諸性質が共存していて、それにも拘わらず、それらがもっともらしい調和を生み出している事実に、私はいつも驚いてきた。

 

行方昭夫 訳  

モーム「サミング・アップ」

我々は誰しも、一人の例外もなく、最初は自分の心の孤独の中で生きることから始め、それから与えられた材料と他者との交流を活用して、自分の必要に似合った外界を作る。

 

行方昭夫 訳  

モーム「サミング・アップ」

美文を書こうなどとは少しも考えなくなっていたのだ。文章を飾るのがいやになり、可能な限り気取らずに素朴に書きたいと願うようになっていた。頭の中に書きたいことがいくらでもあるので、無駄な言葉を使う余裕などなかった。事実を書くことしか念頭になかった。形容詞はいっさい使わないという、あり得ぬような目標を持って書き出した。ちょうどピッタリの語が見付かれば、それを形容する語はなくても済むと考えた。私が心に描いたのは、極めて長い電報のような体裁の小説だった。それは、料金の節約のために、意味を明確にするのに不要な全ての語を省いた電報と同じだ。

 

行方昭夫 訳  

スタンダール「赤と黒」

《おれは真実を愛した……それはどこにあるのだ?……どこを見ても偽善ばかり、少なくともぺてんばかりだ。どんな碩徳の士も、どんな偉人も、例外ではない》ジュリアンの唇は嫌悪の情にひきつった……《そうだ、人間は人間を信頼することができない。

 

大岡昇平・古屋健三 訳  

スタンダール「赤と黒」

  自然法などありはしない。そんな言葉は、このあいだおれを痛めつけた次席検事ぐらいが口にしそうな時代がかった世迷い言だ。あいつの祖先は、ルイ十四世時代の没収財産のおかげで金持ちになったんではないか。法というものは、かくかくのことをしてはならぬと、刑罰によって禁止する法規があって、はじめて成立するものだ。法規以前にみられる自然なものといえば、ライオンの力とか、あるいは腹をへらしたり、寒さにふるえている者の欲求とか、要するに一言でいえば、欲求だけなのだ……そうだ、世間の尊敬を集めているひとたちだって、運よく現行犯で逮捕されずにすんだ悪党にしかすぎない。社会がおれに向けて送った告訴者も、破廉恥な行為で金持ちになったのだ……おれは殺人罪を犯した。罰せられるのは当たり前だ。だが、この行ないひとつを別にすれば、おれに有罪を宣告したあのヴァルノのほうが、社会にとっては百倍も有害な奴なのだ》

 

大岡昇平・古屋健三 訳  

スタンダール「赤と黒」

「そっとしておいてくれ、僕は現在申し分のない生活を送っているのだ。君らの瑣末な骨折り話や、みみっちい現実生活の話は、いずれにしろ僕にはうるさいばかりだし、天上から僕を引きずりおろすようなものだ。人間にはそれぞれちがった死にかたがある。僕は僕なりにしか死のことを考えたくない。他人がなんだ?僕と他人との関係などは、まもなくぶっつり断ち切られてしまうんだ。お願いだから、そんな奴らの話はもう二度としないでくれ。判事と弁護士の顔を見るだけで、もううんざりだ」

《けっきょく》と、ジュリアンは自身に言いきかせた。《夢見ながら死ぬのがおれの運命らしい。おれのような無名な人間は、二週間とたたないうちに忘れ去られてしまうにちがいないから、芝居をするなんてことは、はっきりいって、愚の骨頂だ……

  しかし、生涯の幕がおりるまぎわになってから、人生を楽しむ法を会得するなんて、奇妙なことだ》

 

大岡昇平・古屋健三 訳

*死刑判決を待つジュリアンのもとに、友人や恋人がおしかける場面。  

スタンダール「赤と黒」

今日私が賢いのは、当時気違いじみていたからである。おお、この瞬間にしか眼をとめない哲学者よ、君はなんという近視眼者か!君の眼は、情熱の隠れた働きを追うようにはつくられていない。

                                                                                                           W・ゲーテ

大岡昇平・古屋健三 訳  

スタンダール「赤と黒」

野心が生み出したさまざまの望みを、《おれは死ぬのだ》という由々しい言葉で、ひとつひとつ心からもぎとらなければならなかった。死そのものは、とくに恐ろしいとは思わなかった。これまでの人生は、すべて不幸にたいする長い準備に費やされてきた。そんな彼が、不幸のなかの最大とされている死を忘却するはずはなかった。

 

大岡昇平・古屋健三 訳  

スタンダール「赤と黒」

だが、この楽しみも、これほどの用心と細心さとを払って味わうのでは、もはや私にとっては楽しみとはいえなくなるだろう。

                                                                                           ローぺ・デ・ヴェガ

 

大岡昇平・古屋健三 訳  

スタンダール「赤と黒」

「少なくとも罪を犯すときぐらい、楽しんでやらなければ、意味がない。犯罪のいいところは、それだけなんですから。それにまた、犯罪をすこしでも正当化しようとすれば、理由はそれしかありません」

 

大岡昇平・古屋健三 訳  

スタンダール「赤と黒」

《これで、おれの地位とまったく反対の側をみたわけだ。おれには、二十ルイの年収すらないのに、一時間に二十ルイも収入のある男ととなりあわせでいて、しかもそいつのほうが馬鹿にされたのだ……こんな光景を目撃すると、羨望の心も消えてしまう》

 

大岡昇平・古屋健三 訳 

 

スタンダール「赤と黒」

「君の性格のなかには、少なくとも、わしにとっては定義しがたいなにかがある。そのために、君は出世しなければ、迫害されるだろう。君には、中庸の道はない。思い違いしてはいけない。話しかけても、君が喜ばないことを、他人は見ている。」

 

大岡昇平・古屋健三 訳