本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

マルサス「人口論」第15章

  すでに明らかなように、ゴドウィン氏のシステムにしたがって形成される社会は、避けがたい人間の本性によって悪化し、資産家階級と労働者階級に分かれざるをえない。利己心ではなく博愛が社会を動かす原理になれば、その美しい名前から期待されるような幸せな結果は生じずに、いまは一部の人だけが感じている欠乏の重圧を社会全体が感じるようになる。人間の気高い才能が開花し、微妙で繊細な感受性がさらに向上するのは、じつは確固たる所有の制度のおかげであり、一見いかにも偏狭な利己心という原理のおかげなのである。じっさい、文明国が未開状態と区別されるのも、すべて所有の制度と利己心のおかげなのである。文明人は、現在の高みへ登ってくるときに用いたハシゴを、もはや不要として投げ捨ててよい段階に達しているといえるだろうか、あるいはやがて達するといえるだろうか。人間の性質は、けっしてそういえるほどには変化していない。

  いずれの社会も、未開の段階をこえて成長すると、かならず資産家階級と労働者階級が存在するようになる。そして、労働者階級の唯一の財産は労働であるから、この労働という財産の価値を減ずるようなことはすべて、この社会階級の所有物を減らすことにつながるのは明らかだ。貧乏人が自立して、自分で自分の身を支える唯一の方法は、自分の肉体の力を発揮することである。肉体の力だけが、生活必需品をえるために彼がさしだせる唯一の商品である。もしわれわれが、この商品の市場を縮小し、労働の需要を減らし、貧乏人がもっている唯一の財産の価値を低下させたら、それは彼にとって少しもありがたくないだろう。

マルサス「人口論」第7章

  飢饉は、どうやら自然が用いるもっとも恐ろしい最後の手段である。人口が増加する力は、土地が人間のために食糧を産み出す力よりも、はるかに大きい。したがって、人類は何らかの形で早死にすることになっている。まず、人間の悪徳が、人口減少に挑む有能な先鋒である。それは破壊の大軍の先頭にたち、しばしば単独でも大仕事をなしとげる。しかし。人間の悪徳がこの殲滅戦で成果をあげない場合には、流行病、伝染病、悪疫、コレラやペストがつぎつぎと押し寄せ、数千、数万の人命を掃討する。それでも成果が不完全な場合には、とても刃向かえない大飢饉が後陣からゆったりと現れる。そして、強力な一撃で、人口を世界の食糧と同じレベルに押し下げる。

  人類の歴史をじっくりと探究するなら、以上のことから、人類がかつて存在し、あるいはいま存在しているあらゆる国、あらゆる時代において、つぎの命題が成り立つことを認めないわけにはいくまい。

  すなわち、人口の増加は食糧によって必然的に制限される。

  食糧が増加すれば、人口は必ず増加する。

  そして、人口増加の大きな力を抑制し、じっさいの人口を食糧と同じレベルに保たせるのは、貧困と悪徳である。

 

斉藤悦則 訳    

マルサス「人口論」第7章

  人口を増やすべしという声は、そこらじゅうでよく聞かれる。一方、私は人類の増加傾向はきわめて大きいと述べてきた。もし、それが正しいとしたら、人口増加がしきりに求められているときに人口増加が起きないのは、不思議に見えるかもしれない。この現実の真の理由は、人口増大の要求が、その人口を養うのに必要な資源を準備せずになされていることにある。まず、耕作を促進して農業労働の需要を高めよ。それによって国の食糧生産を増やせ。そして、労働者の生活を改善せよ。そうすれば、人口増加がそれに比例して起こることには何の心配もいらない。これ以外の方法によって目的を達成しようとするのは、有害であり、残酷であり、暴虐である。したがって、いちおう自由がある国では成功しない。

  人口増加を無理に進めて、賃金を下げ、それによってまた陸海軍費を下げ、そして国外向け製品のコストを下げることは、国の支配階級と金持ちたちの利益であると思われる。ところが、この種の企ては慈善という欺瞞的な外見を装ったりするので、庶民は本気で歓迎しそうになる。まさにそういうときこそ、貧乏人の味方は、この種の企てのすべてを注意深く監視し、力のかぎりそれに抵抗すべきである。

 

斉藤悦則 訳   

マルサス「人口論」第5章

  人口の増加がそれに見合う食糧の増加を伴わずに進めば、各人の特許証の価値を減少させるのと、明らかに同じことになる。分配される食糧は必然的に量が少なくならざるをえず、したがって、一日の労働で買える食品の量も少なくなる。食品価格の高騰が起きる。それは、人口増加の速度が食糧の増加を上回るせいか、もしくは、社会における貨幣の配分の変化のせいである。昔から人のいる地方の食糧は、増加するとしても、ゆったりと規則的にしか増えず、突然の需要には応えることができない。一方、社会における貨幣の配分に変動が生じるのは稀なことではなく、それが食品価格にみられる連続的な変動をひきおこす原因になっていることは疑いない。

*特許証→貨幣のことを指している

 

斉藤悦則 訳  

マルサス「人口論」第1章

・・・人口が増える力は、土地が人間の食糧を生産する力よりもはるかに大きい。

  人口は、何の抑制もなければ、等比級数的に増加する。生活物資は等差級数的にしか増加しない。いささかでも数学の素養があればわかるはずだが、前者の増え方は後者に比べると相当なものである。

  人間が生きるためには食物が必要というのが自然の法則だから、人口と食糧は伸び率が異なっても結果的にはバランスがとれるにちがいない。

  それはどういうことかというと、生存の困難が人口の増加をたえず強力に抑制するのである。この困難は人類のある部分にふりかからざるをえず、そして必然的にそれは人数が多い部分にきびしくのしかかる。

 

斉藤悦則 訳   

ジョルジュ・バタイユ「純然たる幸福」

  人は、民衆文化という言葉を用いるときには、一般に最も広まっているが初歩的である文化、接近不可能とみなされている深さを排除している文化のことを考える。人は、文化を民衆の手に届く範囲に置こうとすると、すぐに文化に可能なものの限界を与えてしまい、不可能なものを追求する姿勢を文化から取り除いてしまう。そうするのは正しいとも言える。というのも一般に知的な文化は民衆にとってほとんど価値を持たないからだ(これは独学者がたくさんいるスペインではさほど明確に言えることではない)。が、実際のところは現代の文化は、諸階層に分裂し各階層が精神の面で無縁になっている社会の文化なのである。精神の面で、資本主義社会の下層階級は、もろもろの封建制社会の下層階級よりもずっと分裂している。現代社会の文化は、もっぱら中流ないし上流階級の所産である。そのうえこの文化は、混成の産物なのだ。この文化は、策略を弄して貴族階級の遺産を保存している。現代社会の諸欲求を直接的に表現している文化は、技術的、科学的であり、精神の次元では人道主義的であり実践的である。われわれの時代の真の文化的な富は、だからむしろ、社会の分裂と病いの表現になっているのである。一個の人間が産業の発展と無関係の生を持っているなどということは今日ではほとんどありえない。われわれは、ある時、産業の発展に縛られて、産業の発展を忠実に表現している。別な時にはわれわれは産業の発展を避けて逃避する。そして産業の発展によって、独善的な、あるいは病的な世界へと打ち捨てられてしまうのだ。

 

酒井健 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」結論

  そうはいっても、かつての農村社会がカロリーに飢えていたように、現代社会は富に飢え続けている。決してたどり着けない地平線に向かって歩き続ける人のように、現代社会は絶えずもっと裕福になりたいのだ。だが、いったんその裕福さを手に入れると、それが当たり前の状態になり、現代人はまたしてもそこから遠ざかろうとする。そうなるのを人間はわかっていない。なぜ人間は、常に自己を自分自身から無理やり引き離そうとするのだろうか。精神分析医、人類学者、経済学者は、この不可解な問いに迫ろうとし、さまざまな見解を提示した。いずれにせよ、重要な点は次のようにまとめられるだろう。人間の欲望は、その人が身を置く状況から多大な影響を受ける。こうして人間は、飽くなき無限の欲望を抱くことになる……。

 

林昌宏 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」第3部

  しかしながら、問題の核心は次の通りだ。人間は、自分たちが理解できない欲望の法則に支配され、自分たちの欲求がきわめて影響されやすいのを認めることができない。そして「将来の所得増」を常に願い、たとえ実際に増加しても決して満足しない。なぜなら、人々は自分たちの将来的な見通しを、自己の現在の願いが必ず変化することを考慮せずに、現在の願いを比較するからだ。自分たちが環境の影響によって変化するという考えは、誰も認めようとしない。人は、自分にとってよいことは何かを評価する権利を、今の自分にしか与えない。だからこそ、われわれの社会を機能させるために重要なのは、豊かさよりも経済成長なのだ。つまり、経済成長は、自己の精神的および社会的な境遇から這い上がれるという、儚いが常に更新される希望を全員に与えてくれるのだ。人々の不安を和らげるのはこの約束であって、約束が実現することではない。

 

林昌宏 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」第1部

  貨幣の存在によってつくり出される新たなシンタクスの人類学的な意味は、ミッシェル・アグリエッタとアンドレ・オルレアンが見事に説明している。貨幣のない社会では、直接的つながりしかない。たとえば、コミュニケーションの専門家ポール・ワツラウィックは、冷蔵庫の前で鳴き声を上げる猫は飼い主に対し、「ミルクをくれ」と言っているのではなく、「母親のように振る舞ってくれ」と訴えているのだと説明する。これと同様に、貨幣の存在しないときの交換は、同盟関係や主従関係を築く社会的つながりから抜け出せない。

  金銭的つながりでは、まったく反対のことが生じる。貨幣を支払った時点で関係は終わる。僕が君にお金を払えば、われわれはお別れだ。たとえば、人類学者ゴードン・チャイルドは、刻印入りの貨幣が導入されると、集団への完全な依存は終わると述べた。私は二度と会わないだろう見知らぬ人から商品を買うことができる。実際に、もし私がその人と再び会うことはないと考えるのなら、私はその人に貨幣で支払うべきだ。後にアダム・スミスは、貨幣が存在するおかげで、パンを購入するためにパン屋に微笑まなくてもよいと論じた。われわれは貨幣のおかげで他者との関係から解放される。問題は、貨幣にはその後に他者との関係を再構築する方法が用意されていないことだ。当初から貨幣による交換にはこの矛盾があった。貨幣による交換によって知らない者同士の関係は成り立つが、実際のところ、そうしたネットワークは、特定の集団における強固なつながりを拠りどころにする際には、あまり効果的でない。

林昌宏 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」第1部

われわれ人間は文明の推移に従い、社会の決まりを変える。家族関係や生殖方式は変更可能であり、自分たちの暴力を(しばしば)婉曲的に表現できる。しかしながら、ジョルジュ・バタイユは次のように看破した。「われわれは、自分たち自身でつくった決まりを不可侵なものとして考える傾向があり、それらの決まりを変えるより、それらを定めた社会が破綻するまで突き進もうとする」。

 

林昌宏 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」序論

人間の欲望はすべての富さえ消費しようとする。ルネ・ジラールはこう記している。「人間は、基本的生活にかかわる欲求を満たすと、あるいはそれ以前の段階であっても、激しい欲望をもつようになる。だが、何が欲しいのかは自分でもわからない。なぜなら、人間は欲しがる存在だからだ。人間は、自分にはないと感じる、自分以外の誰かがもっているはずのものを欲しがる存在なのだ……」。経済成長は目的をもたらす手段ではなく、むしろ生活の苦悩から人間を救い出す役割を期待される宗教のような働きをするのだ。

 

林昌宏 訳    

角幡唯介「漂流」終章

  私が追いもとめたのは土地や海、すなわち人間には制御できないどうしようもない自然がそこに属する人の生き方に強制的に介入をする世界であり、そこできずかれる人間と世界との強固な関係性だった。それはつまりニライカナイをそばで感じて生きてきた人々の精神風土であり、人間が土地との間で循環的につむいできた生の形式だった。ひと言でいえば、人間の生き方の原型だった。私は遊離者である自分が経験できなかった、その人間の生き方の原型をさぐるために、沖縄や太平洋の海をヨタヨタとさまよいあるいてきた。規範や管理をおしつけてくる陸の世界の倫理など意に介することなく、自由奔放、融通無碍に独自の海洋民的倫理のおもむくままに生きる姿に、私はすがすがしさをおぼえていた。 

角幡唯介「漂流」第8章

  陸の人間は船乗りという人種全般にたいして、勝手気儘に大海原を行き来する自由な存在という固定観念をもちがちだが、船に乗ってみて、私は、それが物事の一面しか見ていない不十分な見方であることを痛感していた。たしかに彼らは自由なのかもしれない。しかし自由な存在である前に、まず船という閉鎖された空間に隔離された孤独で動きの制約された人間としてこの世界に存在している。それはどういうことかと言うと、彼らは単純に〈海にとりかこまれたせまい船〉という身体的にきわめて限定された空間のなかで生きているということである。彼らは基本的に船から外に出ることはできず、そういう物理的な制約が、まず彼らの性質を規定している。つまり彼らは望むと望まざるとにかかわらず、船ごとに分割されたバラバラな個人として大海原に存在せざるをえないのである。

  そのように分割されて個人として存在しているという前提のうえで、マグロ漁師は船乗りとしての主体性を確保している。彼らは船長や漁労長として海の状況や天候、あるいは他船からの無線情報、燃料や餌の残量、魚倉の空き容量などをもとに判断をくだし、操業海域や運航計画などについて決定する。そしてこの判断をあやまった場合、遭難という自分の生命に直結しかねない深刻な事態をまねくおそれがある。自分で考え、行動し、その結果が自分の運命に直接はねかえってくる。海上の船という隔絶した環境で命にかかわる判断と決断を常時、連続的にくりかえし、その判断にたいする責任を最終的には自分の命であがなうことで、マグロ漁師たちは一人の人間として海という自然、すなわちみずからを存在させている世界の基盤そのものに主体的、本質的に関与しているのである。船乗りが自由だというのは、このように自分の命を自分で管理するという責任関係を、完全に独立した個人として世界と切りむすびことができているからである。

角幡唯介「漂流」第4章

  個人的な話になるが、私が北極やヒマラヤの辺境のようなところに冒険旅行をくりかえすのは、日常生活のなかで死を感じられなくなったからだと思っている。消費文化の価値観にどっぷりと浸かった現代の都市生活においては生や死のいっさいは漂白され、われわれの目には見えなくされている。生や死を想起させる風習、肉や血などの生々しい物体、生きていること自体に由来する汚らしくて猥雑な空間などはすべて忌避され、隠蔽され、私たちはアルファベットの横文字がならんだ、洗剤のデオドラントが漂ってきそうな清潔で小ギレイな居住空間で日常をいとなんでいる。生は肉体という物理的な有機物によって生存期間が限定されており、死が不可避であるにもかかわらず、その死を具体的に想像できない空間のなかに私たちの生はとじこめられているのである。

  本来の生というのは死を感じることができなければ享受することができないものである。科学技術や消費生活が進展することで都市における生は便利に、安逸になり、快楽指数も上昇したが、そのことによって私たちが知ったことは、日常が便利で快適になることと、自分の生が深く濃密になることとはまったく関係がないということだった。現代の都市生活者は死が見えにくくなり、死を経験することができなくなることで、死を想像することもできなくなった。そしてその結果、生を喪失してもいる。私が冒険旅行をするのは、ただたんに死の想像できない都市をはなれて、時々本格的に死と対峙しないと自分の生の輪郭がうしなわれてしまうような気がしてならないからだ。だから私は日常生活のなかで死をとりこむことのできていた頃の人々の暮らしに単純に敬意をおぼえるし、自分の冒険旅行も所詮は日常に死があった頃の生活の追体験にすぎないとも思っている。

角幡唯介「漂流」第1章

  最初は話すのが面倒なので、私を体よく追っ払うために忘れたと言っているのかと思っていたが、しかしあまりにそれがつづくので、途中からは、もしかしたらこの人たちは本当におぼえていないのではないかと考えざるをえなくなった。もしかしたら彼らの時間感覚は狩猟採集民のそれに近いのかもしれないと私は思った。よくよく考えると漁師というのも狩猟採集民みたいなものである。漁は基本的には出てみなければわからない。獲物を探して海を動きまわり、大漁するときはたくさん釣れるが、釣れないときは坊主に近いという、そういう世界だ。それにくわえて遭難や行方不明が頻繁におきる、死におびやかされた日常のなかで彼らは生活をいとなまなければならない。明日は死ぬ身かもしれないのでカネを貯蓄するという発想が生まれにくく、したがって町にもどってきたら盛大に散財する。カネがなくなったら海に出ればいいだけの話である。彼らにとって重要なのは今、現在という直接的な経験であり、未来や過去は意味がないことだ。だから、現在から消えた人間やその思い出にしばられることもないし、おぼえておく必要もない。そういうことなのかもしれない。