本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」第3部

  しかしながら、問題の核心は次の通りだ。人間は、自分たちが理解できない欲望の法則に支配され、自分たちの欲求がきわめて影響されやすいのを認めることができない。そして「将来の所得増」を常に願い、たとえ実際に増加しても決して満足しない。なぜなら、人々は自分たちの将来的な見通しを、自己の現在の願いが必ず変化することを考慮せずに、現在の願いを比較するからだ。自分たちが環境の影響によって変化するという考えは、誰も認めようとしない。人は、自分にとってよいことは何かを評価する権利を、今の自分にしか与えない。だからこそ、われわれの社会を機能させるために重要なのは、豊かさよりも経済成長なのだ。つまり、経済成長は、自己の精神的および社会的な境遇から這い上がれるという、儚いが常に更新される希望を全員に与えてくれるのだ。人々の不安を和らげるのはこの約束であって、約束が実現することではない。

 

林昌宏 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」第1部

  貨幣の存在によってつくり出される新たなシンタクスの人類学的な意味は、ミッシェル・アグリエッタとアンドレ・オルレアンが見事に説明している。貨幣のない社会では、直接的つながりしかない。たとえば、コミュニケーションの専門家ポール・ワツラウィックは、冷蔵庫の前で鳴き声を上げる猫は飼い主に対し、「ミルクをくれ」と言っているのではなく、「母親のように振る舞ってくれ」と訴えているのだと説明する。これと同様に、貨幣の存在しないときの交換は、同盟関係や主従関係を築く社会的つながりから抜け出せない。

  金銭的つながりでは、まったく反対のことが生じる。貨幣を支払った時点で関係は終わる。僕が君にお金を払えば、われわれはお別れだ。たとえば、人類学者ゴードン・チャイルドは、刻印入りの貨幣が導入されると、集団への完全な依存は終わると述べた。私は二度と会わないだろう見知らぬ人から商品を買うことができる。実際に、もし私がその人と再び会うことはないと考えるのなら、私はその人に貨幣で支払うべきだ。後にアダム・スミスは、貨幣が存在するおかげで、パンを購入するためにパン屋に微笑まなくてもよいと論じた。われわれは貨幣のおかげで他者との関係から解放される。問題は、貨幣にはその後に他者との関係を再構築する方法が用意されていないことだ。当初から貨幣による交換にはこの矛盾があった。貨幣による交換によって知らない者同士の関係は成り立つが、実際のところ、そうしたネットワークは、特定の集団における強固なつながりを拠りどころにする際には、あまり効果的でない。

林昌宏 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」第1部

われわれ人間は文明の推移に従い、社会の決まりを変える。家族関係や生殖方式は変更可能であり、自分たちの暴力を(しばしば)婉曲的に表現できる。しかしながら、ジョルジュ・バタイユは次のように看破した。「われわれは、自分たち自身でつくった決まりを不可侵なものとして考える傾向があり、それらの決まりを変えるより、それらを定めた社会が破綻するまで突き進もうとする」。

 

林昌宏 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」序論

人間の欲望はすべての富さえ消費しようとする。ルネ・ジラールはこう記している。「人間は、基本的生活にかかわる欲求を満たすと、あるいはそれ以前の段階であっても、激しい欲望をもつようになる。だが、何が欲しいのかは自分でもわからない。なぜなら、人間は欲しがる存在だからだ。人間は、自分にはないと感じる、自分以外の誰かがもっているはずのものを欲しがる存在なのだ……」。経済成長は目的をもたらす手段ではなく、むしろ生活の苦悩から人間を救い出す役割を期待される宗教のような働きをするのだ。

 

林昌宏 訳    

角幡唯介「漂流」終章

  私が追いもとめたのは土地や海、すなわち人間には制御できないどうしようもない自然がそこに属する人の生き方に強制的に介入をする世界であり、そこできずかれる人間と世界との強固な関係性だった。それはつまりニライカナイをそばで感じて生きてきた人々の精神風土であり、人間が土地との間で循環的につむいできた生の形式だった。ひと言でいえば、人間の生き方の原型だった。私は遊離者である自分が経験できなかった、その人間の生き方の原型をさぐるために、沖縄や太平洋の海をヨタヨタとさまよいあるいてきた。規範や管理をおしつけてくる陸の世界の倫理など意に介することなく、自由奔放、融通無碍に独自の海洋民的倫理のおもむくままに生きる姿に、私はすがすがしさをおぼえていた。 

角幡唯介「漂流」第8章

  陸の人間は船乗りという人種全般にたいして、勝手気儘に大海原を行き来する自由な存在という固定観念をもちがちだが、船に乗ってみて、私は、それが物事の一面しか見ていない不十分な見方であることを痛感していた。たしかに彼らは自由なのかもしれない。しかし自由な存在である前に、まず船という閉鎖された空間に隔離された孤独で動きの制約された人間としてこの世界に存在している。それはどういうことかと言うと、彼らは単純に〈海にとりかこまれたせまい船〉という身体的にきわめて限定された空間のなかで生きているということである。彼らは基本的に船から外に出ることはできず、そういう物理的な制約が、まず彼らの性質を規定している。つまり彼らは望むと望まざるとにかかわらず、船ごとに分割されたバラバラな個人として大海原に存在せざるをえないのである。

  そのように分割されて個人として存在しているという前提のうえで、マグロ漁師は船乗りとしての主体性を確保している。彼らは船長や漁労長として海の状況や天候、あるいは他船からの無線情報、燃料や餌の残量、魚倉の空き容量などをもとに判断をくだし、操業海域や運航計画などについて決定する。そしてこの判断をあやまった場合、遭難という自分の生命に直結しかねない深刻な事態をまねくおそれがある。自分で考え、行動し、その結果が自分の運命に直接はねかえってくる。海上の船という隔絶した環境で命にかかわる判断と決断を常時、連続的にくりかえし、その判断にたいする責任を最終的には自分の命であがなうことで、マグロ漁師たちは一人の人間として海という自然、すなわちみずからを存在させている世界の基盤そのものに主体的、本質的に関与しているのである。船乗りが自由だというのは、このように自分の命を自分で管理するという責任関係を、完全に独立した個人として世界と切りむすびことができているからである。

角幡唯介「漂流」第4章

  個人的な話になるが、私が北極やヒマラヤの辺境のようなところに冒険旅行をくりかえすのは、日常生活のなかで死を感じられなくなったからだと思っている。消費文化の価値観にどっぷりと浸かった現代の都市生活においては生や死のいっさいは漂白され、われわれの目には見えなくされている。生や死を想起させる風習、肉や血などの生々しい物体、生きていること自体に由来する汚らしくて猥雑な空間などはすべて忌避され、隠蔽され、私たちはアルファベットの横文字がならんだ、洗剤のデオドラントが漂ってきそうな清潔で小ギレイな居住空間で日常をいとなんでいる。生は肉体という物理的な有機物によって生存期間が限定されており、死が不可避であるにもかかわらず、その死を具体的に想像できない空間のなかに私たちの生はとじこめられているのである。

  本来の生というのは死を感じることができなければ享受することができないものである。科学技術や消費生活が進展することで都市における生は便利に、安逸になり、快楽指数も上昇したが、そのことによって私たちが知ったことは、日常が便利で快適になることと、自分の生が深く濃密になることとはまったく関係がないということだった。現代の都市生活者は死が見えにくくなり、死を経験することができなくなることで、死を想像することもできなくなった。そしてその結果、生を喪失してもいる。私が冒険旅行をするのは、ただたんに死の想像できない都市をはなれて、時々本格的に死と対峙しないと自分の生の輪郭がうしなわれてしまうような気がしてならないからだ。だから私は日常生活のなかで死をとりこむことのできていた頃の人々の暮らしに単純に敬意をおぼえるし、自分の冒険旅行も所詮は日常に死があった頃の生活の追体験にすぎないとも思っている。

角幡唯介「漂流」第1章

  最初は話すのが面倒なので、私を体よく追っ払うために忘れたと言っているのかと思っていたが、しかしあまりにそれがつづくので、途中からは、もしかしたらこの人たちは本当におぼえていないのではないかと考えざるをえなくなった。もしかしたら彼らの時間感覚は狩猟採集民のそれに近いのかもしれないと私は思った。よくよく考えると漁師というのも狩猟採集民みたいなものである。漁は基本的には出てみなければわからない。獲物を探して海を動きまわり、大漁するときはたくさん釣れるが、釣れないときは坊主に近いという、そういう世界だ。それにくわえて遭難や行方不明が頻繁におきる、死におびやかされた日常のなかで彼らは生活をいとなまなければならない。明日は死ぬ身かもしれないのでカネを貯蓄するという発想が生まれにくく、したがって町にもどってきたら盛大に散財する。カネがなくなったら海に出ればいいだけの話である。彼らにとって重要なのは今、現在という直接的な経験であり、未来や過去は意味がないことだ。だから、現在から消えた人間やその思い出にしばられることもないし、おぼえておく必要もない。そういうことなのかもしれない。   

スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー「ヤバい経済学」第2章

  取引の一方がもう一方よりもたくさん情報を持っているということはよくある。経済学者の専門用語でこれを情報の非対称性と言う。私たちは、誰か(普通は専門家)が他の誰か(普通は消費者)よりもよくわかっていることが資本主義ではよくあると思っている。でも実際は、あらゆるところでインターネットが情報の非対称性に致命的な打撃を与えている。

  インターネット上では情報が通貨だ。情報を、持つ人から持たざる人へ伝達する媒体として、インターネットは素晴らしく効率的である。定期生命保険料がそうだったように、情報はあってもてんでばらばらだったりすることもある(そういうときインターネットは、数えきれないほどの干草の山から針を次々と吸いつけていくばかでかいU字磁石みたいな働きをする)。ステットソン・ケネディが、ジャーナリストもいい子ちゃんぶった社会派も検察官もできなかったことをやってのけたように、インターネットは消費者保護団体にはできなかったことをやってのけた。専門家と一般人の格差を大幅に縮めたのだ。

 

望月衛 訳   

スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー「ヤバい経済学」第1章

道徳的インセンティブを経済的インセンティブとぶつからせる研究が1970年代に行われた。今度は献血の背後にある動機について調べようとしたのだ。わかったこと: 献血をした人を思いやりがあると単に褒めるかわりに、彼らに少額の奨励金を払うと、献血は減る傾向がある。奨励金で、献血は気高い慈善活動から痛い思いをしてほんの数ドル手に入れる方法に堕落した。そして数ドルではぜんぜん見合わない。

 献血者に払われるインセンティブが50ドルならどうだろう?500ドルなら?あるいは5000ドルなら?もちろん献血者の数は大きく違っていたはずだ。

  しかし、大きく違うのはそれだけではないだろう。インセンティブには暗黒面がつきものだ。400ccの血に突然5000ドルの値段がついたらたくさんの人がそれに目をつけるのは間違いない。ナイフで人を刺して文字どおり血を強奪する人が出るかもしれない。ブタの血を自分の血だと言って出す人もいるかもしれない。偽造した身分証明書を使って献血量の制限を超えようとするかもしれない。インセンティブが何であれ、置かれた状況がどうであれ、インチキする連中はどんなことをしてでも人を出し抜こうとする。

 

望月衛 訳    

リチャード・バック「かもめのジョナサン」

  彼はごく単純なことを話した——つまりカモメにとって飛ぶのは正当なことであり、自由はカモメの本性そのものであり、そしてその自由を邪魔するものは、儀式であれ、迷信であれ、またいかなる形の制約であれ、捨て去るべきである、と。

 

五木寛之 訳   

リチャード・バック「かもめのジョナサン」

  ジョナサンが岸にいる群れのところにもどった時には、夜もすっかりふけていた。彼は疲れはてており、目まいがするほどだった。だが、心にあふれる歓びをおさえかねた彼は、着地寸前に急横転を加えた宙返り着陸をやってのけた。みんながこのことを聞いたら、と彼は考えた。おれのこの〈限界突破〉のことを聞いたらきっと大騒ぎして歓ぶぞ。いまやどれほど豊かな意義が生活にあたえられたことか!漁船と岸との間をよたよたと行きつもどりつする代りに、生きる目的がうまれたのだ!われわれは無知から抜け出して自己を向上させることもできるし、知性と特殊技術をそなえた高等生物なのだと自認することも可能なのだ!われわれは自由になれる!いかに飛ぶかを学ぶことができる!

 

五木寛之 訳    

リチャード・バック「かもめのジョナサン」

  彼は精気に満ち、歓びに身を小きざみに震わせながら、自分が恐怖心に打ち勝っていることを誇らしく感じた。やがて彼は、むぞうさに翼にたたみこみ、角度をつけた短い翼の先をぴんと張ると、海面めがけてまっさかさまに突っこんでいった。千二百メートルを過ぎるころには、彼はすでに限界速度に達していた。風は、彼がもうそれ以上の速さでは進めないほどの、激しく打ちつける固い音の壁となった。いま、彼はまさに時速三百四十キロ以上で一直線に降下しつつあるのだ。もしこのスピードで両翼をひろげたら、たちまち爆発して何万というカモメの切れはしになってしまうだろう。それを考えて彼は思わず息をのんだ。だが、彼にとってスピードは力だった。スピードは歓びだった。そしてそれは純粋な美ですらあったのだ。

 

五木寛之 訳   

リチャード・バック「かもめのジョナサン」

  ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変りなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。

 

五木寛之 訳  

L.M.モンゴメリ「詩集 夜警」

選択

人生よ 蒼白い色や灰色の身なりで私の所へ来ないでくれ
そんな地味な衣装のお前は好まない
人生よ 喜びと悲しみを広く共にしたい
喜びと苦悩に満ち溢れた
お前の深さを測り
お前の最高の感情にまで行き着こう

百姓家にお前と留まるにしろ 宮居にお前と留まるにせよ
人生よ お前の大きな聖盃をぐっと飲み干そう
その苦い澱までも——
そう これらを避けないで
力と慰めは苦しさから生まれるのだし
知恵は眠りの安易さのうちには得られないのだから

蒼ざめた平和 活気のない日はよき贈り物ではない
大きな苦痛も愛もないのは味のないこと
人生よ 私の心の盃を受け取り
どんなに強い酒でも香料でも
溢れんばかりに満たしておくれ
私の心が萎んでしまったり 空にならないように

そうだ 人生よ 人生を遊ぶのではなく
お前が喜んで与えてくれるものに一所懸命生きよう
怯むことのない元気を出して
毎年毎年お前を迎えよう
お前が御機嫌斜めでも 何か良いことを成し遂げて
奥深く隠された人生の意味をはっきり読み取るまで

吉川道夫 柴田恭子