本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

オイゲン・ヘリゲル「弓と禅」

  この状態、その中ではもはや何ら特定のことが考えられず、計画されず、希求、願望、期待されない状態、どんな特殊の方向に向かっても目指して行かないものでありながら、しかも確固不偏の力の充実のゆえに可能なものに対しても、あるいはまた不可能なものに対しても巧みに対処する術をわきまえている状態——この状態こそ、真底からして無心無我なのであって、師範によって本来的に“精神的”と呼ばれたものであった。それは実際精神の目覚めた状態に満ち満ちているゆえに、“正しい精神の現在”ともいわれるのである。その意味は、精神がどこにも、どんな特殊の場所にも執着しないがゆえに、どこにでも現在するというのである。のみならず精神はいつまでも現在的であることができる。というのは精神が、これまたはあれという特殊のものを目指したとしても、そのことに思慮を用いて執着することなく、したがって自己の根源的自在を失うようなことはないからである。それは池を満たしながら絶えず流れ出ようとする水にも比べられるのであって、自由であるゆえにその都度、尽きない力で働くことができ、また空虚であるゆえにあらゆるものに自己を開くことができるのである。この状態はまさしく本来的に一つの根源的状態であって、その象徴である空円は、その中に立つ人を黙らせてはおかないのである。

 

稲富栄次郎・上田武 訳   

オイゲン・ヘリゲル「弓と禅」

  日本の弟子は三つのことを身につけてくる。善いしつけと、自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛と、師に対する批判抜きの尊敬とである。師弟関係は昔から生の基礎的な結合であり、それゆえ師はその教授科目の枠をはるかに超えて、強度の責任をとることが、この関係の中に含まれているのである。
  まず弟子は最初、師がやって見せることを、良心的に模倣すること以外には、何一つ要望されることがない。師は長ったらしい説教や理由付けを嫌って、簡潔な教示をするにとどめ、弟子が質問することなどは勘定に入れていない。彼は弟子の模索的な数々の骨折りを落ちつきはらって静かに眺めており、別に弟子の独立心や創意工夫を期待しないが、弟子が成長し成熟するのをじっと待っている忍耐心を持っている。両者共に時間をたっぷり持っており、師はせきたてず、弟子はあわてて手をさし出さないのである。
  時期尚早に弟子を芸術家に目覚めさせようなどとは毛頭考えず、師は彼を、手業が無上によくできる有能者に仕立てることを、自分の最初の使命と考えている。弟子はたゆまぬ勤勉によって師のこの意図に添おうと努める。彼はまるでそれ以上の高い要求は全然持っていないかのように、いわば自分に愚鈍な心服状態を背負わせる。こうして彼は、何年か経って初めて、完全に自己のものとした形式が、もはや自分を圧迫せず、かえって自己を解放するという経験を持つようになるのである。彼は一日一日と次第に容易に、どんな芸術的霊感にも、技術的には造作なく従うことができるようになる、が同時にまた心をこめた観察の中から、霊感をぞくぞくわかせることもできるようになる。

 

稲富栄次郎・上田武 訳  

シラー「世界詩集」(講談社)より

      孔夫子の箴言

時間の歩みは三重だ。
ためらいがちに未来は近づき、
矢のように早く現在は飛び去り、
永遠に静かに過去は立ちどまっている。

 

時間のとどこおるとき、どれほどあせっても
時間の歩みを早めることはできない。
時間の飛び去るとき、おそれも、思いまどいも
その歩みをひきとめることはできない。
悔いも、呪いも
停止している時間を動かすことはできない。

 

きみが幸福に、そして賢く
人生の旅を終えたいと思うなら、
ためらう時間を熟慮のために用いよ、
きみの行為の道具に使ってはならぬ。
飛び去る時間を友にえらぶな、
とどまる時間を敵にまわすな。

 

空間の大きさは三重だ。
休みなく、たえまなく
長さはのびようとつとめ、
どこまでも遠く、はてしなく広さはそそがれ
底知れず深さは沈みゆく。

 

それらはきみにひとつの姿を示している。
きみが完成の姿を見たいと思うなら、
休みなくきみも前進すべきだ、
疲れて立ちどまることをけっしてするな。
世界を形成させたいなら、
広さのなかへおのれを展開することだ。
本質の啓示を願うなら
深さのなかへ降りてゆくことだ。
粘りづよい前進のみが目標にみちびき、
おのれを充実させることのみが澄明にみちびき、
そして底の底にやどっているのが真理なのだ。


登張正美 訳    

ミュッセ 「世界詩集」(講談社)より

       悲しみ

力も 生命も 失った、
友だちも 陽気さも、
自分こそ天才と思いこんでいた
あの誇りさえも。

 

「真理」を知ったとき
仲間と思ったものだった
知ってしまい わかってしまうと
もう鼻についていた。

 

とは言うものの「真理」は不滅
「真理」に何の用もなかった人は
この世で 何も知らずに過ごした人。

 

神が話しておられる、答えねば。
一つだけ残ったのです よいことが、
つまり ときには涙にくれたこともあるのです。

 

小池健男 訳    

ボードレール 「世界詩集」(講談社) より

        人と海

自由な人よ、いつまでもお前は海をいとしむだろう!
海はお前の鏡。果てしない波のうねりのなかで
お前は お前の魂をじっとみつめる、
そうしてお前の精神も、やっぱり苦い深淵だ。

 

お前は お前の絵姿のなかに飛び込むのが好きだ。
お前は両眼で両腕でそれを抱きしめ、そしてお前の心は
あの抑えきれない荒々しい海の嘆きの潮騒
ときおり自分の心の不穏なざわめきをまぎらわしている。

 

お前たちは二人とも暗黒で秘密を宿している。
人間は、だれもお前の深淵の底を測れなかった。
おお、海よ、だれもお前の内密の富を知ってはいない、
それほどお前たちは秘密を守るのに汲々としている!

 

しかもそれなのに幾数世紀も昔から
お前たちは情容赦も後悔もなく 互いに闘っている、
それほどお前たちは殺戮と死が好きなのだ、
おお永遠の闘争者、おお和解しがたい兄弟たちよ!

 

高畑正明 訳   

 

サン=テグジュペリ「夜間飛行」

リヴィエールはよく言っていた。
__あの連中みんな幸福だ、なぜかというに、彼らは自分たちのしていることを愛しているから。彼らがそれを愛するのは、僕が厳格だからだ」
彼は、あるいは、配下の人員を苦しめたかもしれない。しかしまた彼らに大きな喜びをも与えた。彼は信じている、「苦悩をも引きずっていく強い生活に向って彼らを押しやらなければいけないのだ。これだけが意義のある生活だ」と。

 

堀口大學 訳  

サン=テグジュペリ「夜間飛行」

「愛されようとするには、同情さえしたらいいのだ。ところが僕は決して同情はしない。いや、しないわけではないが、外面には現さない。僕だとて勿論、自分の周囲を、友情と人間的な温情で満たしておきたいのはやまやまだ。医者なら自分の職業を遂行しながら、それらのものをかち得ることもできるのだが、僕は不測の事変に奉仕している身の上だ。不測の事変がいつでもこれを使い得るように、僕は人員を訓練しておかなければならない。夜ふけて、地図を前に、事務室にいると、僕にははっきりこの隠れた法則が感じられる、僕がなげやりにして、万事をただ規則まかせにしておくようだと、不思議に早晩事故が生じる。いわば、機体が飛行中にばらばらになるのを、また暴風雨が来て便の到着を遅らせたりするのを防ぐのは、すべて僕の意思の力ひとつにかかっているような気がするのだ。僕はときどき、自分のこの能力に自分ながら驚くほどだ」

 

堀口大學 訳   

サン=テグジュペリ「夜間飛行」

  彼は思い続けた。あの二人の搭乗員、ともすれば死んでしまうかもしれないあの二人の搭乗員は、幸福な生活を続け得た二人かもしれないのだ。彼には宵のランプの金いろの光の聖殿の中にうなだれている二人の顔が見えた。「何者の名において、僕は彼らをそこから引出してきたのか?」自分は何者の名において、彼らをその個人的な幸福から奪い取ってきたのか?根本の法則は、まさにその種の幸福を保護すべきではないのか?それなのに、自分はそれを破壊しているのだ。ところで、ひるがえって思うに、それらの幸福の聖殿は、蜃気楼のように、必ず消えてしまうものなのだ。老と死とは、彼リヴィエール以上にむごたらしく、それを破壊する。このことを思うなら、個人的幸福よりは永続性のある救わるべきものが人生にあるかもしれない。ともすると、人間のその部分を救おうとして、リヴィエールは働いているのかもしれない?もしそうでなかったら、行動というものの説明がつかなくなる。
「愛する、ただひたすら愛するということは、なんという行き詰まりだろう!」リヴィエールには、愛するという義務よりもいっそう大きな義務があるように、漠然と感じられるのだ。同じく優しい気持ではあるが、それは他の優しさとはぜんぜん異なる種類のものだった。

堀口大學
*郵便飛行の黎明期、支配人リヴィエールは厳格な規定の下、事業の責任を担う。  

サン=テグジュペリ「夜間飛行」

  彼がもし、たった一度でも、出発を中止したら、夜間飛行の存在理由は失われてしまう。あす、彼リヴィエールを非難するであろう彼ら気の弱い者どもを出し抜いて、彼はいま、夜の中へ、この新しい搭乗員を放してやるのだ。
  勝利だの……敗北だのと……これらの言葉には意味がない。生命は、こうした表象を超越して、すでに早くも新しい表象を準備しつつあった。勝利は一国民を衰弱せしめ、敗北は他の一国民を衰弱から鼓舞する。今度、リヴィエールが喫した敗北は、どちらかといえば、最も勝利に近い敗北だった。大切なのは、ただ一つ、進展しつつある事態だけだ。

 

堀口大學 訳  

メリメ「アルセーヌ・ギヨ」

「あのときは、かわいそうに気が狂っていたのですわ、いまとなっては後悔しておいででしょう、ねえ、きっと?」
「はい……でも不幸に追いつめられると、頭までが自分のものではなくなりますの」

 

堀口大學 訳   

メリメ「アルセーヌ・ギヨ」

「そのうえで自分に言い聞かせましたの、あたしが自殺したら、あの人が苦しむだろうと、そうしたら復讐したことになると……。窓があいていました、そのままあたし身を投げましたの……」
「まあ、あなたという人は、なんということをしたのでしょう、理由も軽率なら、行為もそれに劣らぬ罪悪です」
「おっしゃるとおりです。でも仕方がありませんわ、悲しいと反省なんかできませんもの、幸福な方たちが、《冷静におなりなさい》とおっしゃるだけならこれは楽でしょうが」

 

堀口大學 訳   

メリメ「エトリュスクの壺」

サン=クレールは、全然友情を信じなかった、この事実は他人にも感じられた。彼が社交界の若い連中と熱のない控え目な交際をしているというのも定評になっていた。彼らの内証事を問いただしたりは絶対にしなかったが、そのかわり彼の心中のことも、行動の大部分も、連中にとっては神秘だった。大体フランス人は、自らを語りたがる。おかげでサン=クレールは、望みもしない他人の打明け話の聞き手にされることがたびたびだった。友人たち(ここでのこの言葉は、人が週二回顔をあわせる相手というほどの意味だが)は彼のうちとけない態度を不満に思った、それというのも、きかれもしない内証事を打明けた人間は、お礼に相手の内証事が聞けないとなると気を悪くするのが普通だからだ。世間の人たちは打明け話は当然相互的であるべきだと錯覚している。

 

堀口大學 訳   

メリメ「カルメン」

「頼むから聞きわけてくれ、過ぎ去ったことはいっさい水に流すとまでおれは言ってるんだ。おれがこんなやくざになったのも、おれが泥棒になったのも、人殺しをしたのもみんなあんたのためだと知っているあんたじゃないか。カルメン! おれのカルメン! おれにあんたの命を助けさせてくれ、あんたといっしょにおれの身を助けさせてくれ」私が懇願しました。
「ホセ、あんたが望んでいるそれはできない相談よ。わたしはもうあんたに惚れてはいないんだもの。あんたはまだわたしに惚れておいでだけれど。だからあんたはわたしが殺したくなるのよ。わたしはなんとでも嘘をついて今度もあんたをだますことくらい造作ないんだけれど、わたしにはもうそれさえする気がないのよ。わたしたち二人のあいだでは、すべてがもう終ってしまったのよ。あんたはわたしのロムだから、自分のロミを殺す権利があるわ。だけどあカルメンはいつだって自由な女よ。カリとして生れてきたカルメンは、カリとして死んでいきたいのよ」あの女が言うのでした。

 

堀口大學
*カリ→ジプシーが自身を言い表す言葉
*ロム→ロマニ語で亭主   ロミ→ロマニ語で女房   

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オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

あまりにも満足しきっている時代、あまりにも達成されている時代は、実は内面的に死んでいるのに気づく。紛れもない真の生の充実とは、満足や達成や到達にあるのではない。すでにセルバンテスが「道中のほうがいつでも宿屋よりよい」と言っている。自己の願望、自己の理想を満足させた時代はもはやそれ以上のものをなんら望まないのであり、願望の泉が涸れてしまっているのである。つまり、あのすばらしい絶頂というのは実は終末なのだ。自己の願望を更新することができないために、ちょうど幸運な雄の蜜蜂が新婚の空の旅のあとで死ぬように、満足が原因で死滅する時代もあるのだ。

 

桑名一博 訳  

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であることを知りながら、毅然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。

 

桑名一博 訳