本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ルソー「エミール」第3編

各人は他人がもっているもので自分の役にたつものを、そしてそのかわりに他人に提供できるものを知らなければならない。十人の人がいて、それぞれの人が十種類の必要をもつとしよう。それぞれの人は自分に必要なものを手に入れるために、十種類の仕事をしなければならない。しかし、天分と才能のちがいを考えれば、ある人はその仕事のあるものがそれほどうまくできないだろうし、またある人はほかの仕事がうまくできないだろう。それぞれちがったことにむいているのに、みんなが同じ仕事をしては、十分なものが得られないことになる。この十人の人で一つの社会をつくることにしよう。そして各人が自分のために、そしてほかの九人のために、自分にいちばん適した種類の仕事をすることにしよう。各人は他の人々の才能から利益を得て、自分ひとりですべての才能をもっているのと同じことになる。各人は自分の才能をたえずみがくことによって、それを完全なものにすることになる。そこで、十人とも完全に必要なものを手に入れることができ、さらに余分なものを他人にあたえることができるようになる。これがわたしたちの社会制度のすべての表面的な原則だ。

 

今野一雄 訳   

ルソー「エミール」第4編

人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望をもたないこと、そして自分をあまり他人とくらべてみないことだ。人間を本質的に邪悪にするのは、多くの欲望をもつこと、そしてやたらに人々の意見を気にすることだ。

 

今野一雄 訳   

ルソー「エミール」第4編

同情は快い。悩んでいる人の地位に自分をおいて、しかもしかもその人のように自分は苦しんでいないという喜びを感じさせるからだ。羨望の念はにがい。幸福な人を見ることは、うらやましく思っている者をその人の地位におくことにはならないで、自分はそういう地位にはおかれていないという恨めしい気持ちを起こさせるからだ。一方はかれが悩んでいる苦しみをわたしたちにまぬがれさせるように、他方はかれが楽しんでいる喜びをわたしたちから奪っているように感じられる。

 

今野一雄 訳

ルソー「エミール」第4編

  他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

 

今野一雄 訳    

ルソー「エミール」第4編

  わたしたちは表面的なことで幸福を判断していることがあまりにも多い。どこよりも幸福のみあたらないところにそれがあると考えている。幸福がありえないところにそれをもとめている。陽気な気分は幸福のごくあいまいなしるしにすぎない。陽気な人は他人をだまし、自分でも気をまぎらそうとしている不幸な人にすぎないことが多い。人の集まったところでは微笑をたたえ、快活で、朗らかな様子をしている人は、ほとんどみんな、自分の家では陰気な顔でどなりちらしていて、召使いたちは主人が世間でふりまいている愛嬌のために苦しむことになるのだ。ほんとうの満足感は、陽気でもなければ、ふざけちらしたりすることでもない。その快い感情をだいじにして、それを味わいながらよく考え、十分に楽しみ、それを発散させてしまうことを恐れている。ほんとうに幸福な人間というものは、あまりしゃべらないし、ほとんど笑わない。かれは幸福をいわば自分の心のまわりに集中させる。騒々しい楽しみごと、はねっかえるような喜びは、嫌悪と倦怠を覆いかくしている。一方、メランコリーは快楽の友だ。感動と涙がこのうえなく快い楽しみにともなう。そして、大きな喜びもまた、叫び声ではなく、むしろ涙をもたらすのだ。
  はじめは、いろいろと変化のある楽しみごとが幸福に役立つようにみえるとしても、一様な変化のない生活ははじめは退屈なようにみえるとしても、もっとよく見れば、はんたいに、いちばんなごやかな心の習慣は、欲望と嫌悪感にとらえられることが少ない、節度ある楽しみのうちにあることがわかる。落ち着きのない欲望は、好奇心を、変わりやすい気分を生み出す。騒々しい楽しみのむなしさは倦怠感を生みだす。

 

今野一雄 訳     

ルソー「エミール」第4編

歴史の大きな欠点の一つは、人間をよい面からよりも、はるかに多くの悪い面から描いていることだ。歴史は革命とか大騒動とかいうことがなければ興味がないので、温和な政治が行なわれてなにごともない状態のうちに国民の人口がふえ、国が栄えているあいだは歴史はなにも語らない。その国民が自分の国だけでは満足できなくなって、隣りの国の事件にくちばしをいれるか、それとも、自分の国の事件に隣りの国からくちばしをいれられるかしたときに、はじめて歴史は語りはじめる。歴史は、ある国がすでに衰えはじめているときに、それに輝かしい地位を与える。わたしたちの歴史はすべて終わりにすべきところではじまっているのだ。たがいに滅ぼしあっている国民についてはわたしたちはひじょうに正確な歴史をもっている。わたしたちに欠けているのは富み栄えていく国民の歴史だ。そういう国民は、十分幸福で、賢明なので、それについては歴史はなにも語ることがないのだ。そして、じっさい、現代においても、もっともうまくいっている政府はもっとも話題にのぼることの少ない政府であることをわたしたちは知っている。

 

今野一雄 訳    

ルソー「エミール」第4編

  物質的な存在はけっしてひとりでに行動するものではないが、わたしは自分から行動する。人がいくら否定しようとしても、わたしはそう感じているし、わたしに語りかけるこの感じはそれに反対する論理よりも強い。わたしには体があって、それにほかの物体がはたらきかける。わたしの体もそれらの物体にはたらきかける。この相互的な作用は疑うことができない。しかし、わたしの意志はわたしの感官から独立している。わたしは同意したり抵抗したりする、屈服したり克服したりする、だが、わたしは自分がしたいと思ったことをしているときにも、自分の情念に負けてなにかしているにすぎないときにも、それを完全に意識している。わたしにはいつもなにか欲する力はあるが、それを実行する力はあるとはかぎらない。誘惑に負けるばあい、わたしは外部のものの力によって動いている。そういう弱さを自分にとがめているときには、自分の意志にだけ耳をかたむけている。わたしは、悪いことをしているときには奴隷だが、後悔しているときには自由な人間だ。わたしは自由だという感じがわたしのうちから消えていくのは、わたしが堕落するとき、肉体の掟にたいして魂が非難の声をあげているのをついに黙らせてしまったときだけだ。

 

今野一雄 訳  

ルソー「エミール」第4編

あるがままで満足していれば、わたしたちは自分の運命を嘆くことはあるまい。ところがわたしたちは、空想的な幸福をもとめて、かずかずの現実の不幸をまねいている。すこしばかりの苦しみにも耐えられない者は、多くの苦しみをうけることを覚悟しなければならない。人は、不規則な生活によって体をそこなうと、薬によって健康を回復しようとする。いま感じている苦しみに、さきのことを心配して、さらに苦しみをつけくわえる。死の予想は死を恐ろしいものと感じさせ、それをはやめる。死をのがれたいと思えば思うほど、いっそう身近に死を感じることになる。こうして人は一生のあいだ、自然に背いたことをして自分でまねいた悪を自然のせいにして愚痴をこぼしながら、恐れのために死んでいるのだ。

 

今野一雄 訳   

ルソー「エミール」第4編

うるさいおしゃべりは、才能をうぬぼれろこと、それとも、つまらないことに価値をあたえて、愚かにも、他人も自分と同じようにそれを重要視していると考えること、このどちらかから必然的に生まれてくる。ものごとをよく知っていて、すべてのものにそのほんとうの価値をあたえることができる人は、けっしてよけいなことは言わない。相手がかれにたいして示す関心とかれの話にたいしてもてる興味を評価することも心得ているからだ。一般的にいって、わずかなことしか知らない人は多くのことを語り、多くのことを知ってる人はわずかなことしか語らない。無知な人間は自分が知っていることをなんでも重要なことだと思い、だれにでもそれを話す、これはわかりきったことだ。ところが教養ある人は容易にかれの持ち物を公開しない。かれには語るべきことがありすぎるし、自分に言えることのほかにもまだ多くのことが言えることがわかっている。だからかれは口をつぐんでいる。

 

今野一雄 訳   

ルソー「エミール」第4編

虚栄心のつよい人たちは富をみせびらかそうとして、利益をもとめる人たちはその恩恵にあずかろうとして、きそって金をつかい、つかわせる新しい方法をさがしている。そこで大がかりなぜいたくが支配権を確立し、手に入れることの困難な、高価なものを好ませる。そうなると、いわゆる美しいものは、自然を模写するどころではなく、自然に反することによってのみ美しいとされる。こんなわけで、ぜいたくと悪趣味はかならず結びついているのだ。趣味に金がかかるばあいには、それはいつもまちがった趣味なのだ。

 

今野一雄 訳  

ルソー「エミール」第4編

わたしにとっては、一つところにいろいろと設備をして住みつくのは、あらゆるほかの場所から自分を追放するようなもの、いわばわたしの宮殿のなかに監禁されるようなもの、と考えられるだろう。世界は十分に美しい宮殿だ。

 

今野一雄 訳    

ルソー「エミール」第4編

  排他的な楽しみは楽しみを殺す。ほんとうの楽しみは民衆と分けあう楽しみだ。自分ひとりで楽しみたいと思うことは楽しみではなくなる。わたしの庭園のまわりに囲いの壁をめぐらして、そこを閉じられた陰気な場所にしたのでは、わたしは多くの費用をかけて散歩の楽しみを自分からとりあげただけだ。わたしは散歩する場所をさがして遠くまで行かなければならなくなる。所有権という魔物はそれがふれるいっさいのものを毒する。金持ちはいたるところで主人になりたいと思いながら、主人でないところでしかいい気分になれない。

 

今野一雄 訳   

ルソー「エミール」第5編

   人生は短い、と人々は言う。だが、私の見るところでは、彼らは人生を短くしようと努めている。時間の使い方も知らないで、彼らは時のたつのが早すぎるといって嘆く。だが私の見るところでは、時は彼らの望みよりは、むしろ遅すぎるくらいゆっくり流れているのだ。いつも自分の目ざす目的のことで頭がいっぱいなので、彼らは自分とその目的とを隔てている間隔を、いまいましげに見ているではないか。ある人はあすになればよいと願い、ある人は来月になればと思い、ある人は十年先になれば、と思っている。だれ一人として今日生きようとは思わない。だれ一人として現在に満足してはいない。みな現在が過ぎ去るのが、あまりにも遅いと感じている。彼らが、時があまりにも早くたつと言って嘆くとき、彼らはうそをついている。 むしろ時を早く流れさせる力を手に入れるためなら、喜んで金を払うことだろう。自分たちの一生を使い果たすためなら、喜んで財産を傾けるだろう。そして、もし退屈のあまり、自分の重荷になっている時間を、またいらいらするあまり、待ち遠しくてたまらないと思う瞬間から自分を隔てている時間を、思いのままに取り除くことができたとしたら、自分の一生をわずか数時間に縮めてしまわなかったような人は、おそらく一人もいないだろう。

 

今野一雄 訳    

ルソー「エミール」第5編

人はその受けた教育に応じた好奇心しかもたないものだ。

 

今野一雄 訳  

ルソー「エミール」第5編

我々の生の悩みは、我々の必要からよりも、むしろ我々の感情から生ずるのだ。我々の欲望は広大である。だが我々の力はほとんど無に等しい。人間はその願望によって 無数のものに結びついている。それなのに、自分自身の力によっては何ものにも、自分の生命にさえ結びついていないのだ。だから、執着がふえればふえる程、苦痛もまたふえるのだ。この世にあって、ありとあらゆるものは過ぎ去って行く。我々の愛しているものは全て、早晩我々のもとから逃げていくであろう。それなのに、我々はあたかもそれが永遠に続くものででもあるかのようにそれに執着している。

 

今野一雄 訳