本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

フェルナンド・ペソア「ポルトガルの海」

この世界の不幸はすべてわれわれが  善意であれ悪意であれ

他人のことを気にするために生まれるのだ

魂と天と地  これだけあればわれわれは充分だ

それいじょうを望むことはこうしたものを失うことだ  不幸になることだ

 

「昨日の夕暮れ」より  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  死は解放だ、なぜなら、死ぬのは他人を必要としないからだ。哀れな奴隷は喜びや悲しみや望ましい持続する生活から否応なしに解放される。王は離れがたい領地から解放される。愛を広めた女たちは好んだ勝利から解放される。征服した者たちは自分の人生を運命づけた勝利から解放される。

  したがって、死は哀れなばかげた身体を高貴にし、見知らぬ晴れ着をまとわせる。そう望まないとしても死んでこそ自由になる。泣きながら従属生活を失うとしても、死んでこそ奴隷でなくなる。王という名が最大の壮麗さである王として、人間としては笑われるにしても、王としては優れている者がこうして死ぬと醜くなるが、それでも死が彼を解放したので優れている。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  自由とは孤立の可能性なのだ。もしおまえが人から離れることができ、金銭の必要性や群れを作る必要や愛や栄光や好奇心のために人を捜し求めなくてもすむなら、おまえは自由だ、なぜなら、そうしたものはどれも、静寂や孤独のなかでは栄えないからだ。もしもおまえが独りで暮らせないのなら、奴隷に生まれついたのだ。精神と心のあらゆる偉大さをそなえているかもしれない。それなら、おまえは高貴な奴隷か賢い召使だ。だが、おまえは自由ではない。そして悲劇はおまえに起きているのではない、なぜならおまえがそのように生まれたという悲劇はおまえに起きたのではなく、ただ〈運命〉によるものだからだ。しかしながら、生活が圧迫し、生活そのものがおまえに奴隷になるように強いるなら、おまえは哀れだ。もしも自由に生まれ自己充足でき、孤立することができるのに、貧困のために共同生活をせざるを得ないなら、おまえは哀れだ。そう、それはおまえの悲劇で、おまえにつきまとう。

  生まれつき自由の身であるのは、人間の最大の光輝であり、卑しい隠者を王よりも、さらに、力の軽視ではなくて力によって、自足できる神々にもまして優れたものにする。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  今日の生活では、世界は愚か者、愚鈍な者、興奮した者だけのものだ。生きて勝利する権利は今日、精神病院へ収容されるのとほぼ同じ経過によって獲得される。思考能力の欠如、道徳観念の欠如、過度の興奮だ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  普通、知らないものを考えるとき、われわれは知っているものの概念で色をつける。もしも死を眠りのひとつと呼べば、外観が眠りに似ているからだ。死をひとつの新しい生と呼べば、生とは異なるもののように見えるからだ。現実をいささか誤解して、われわれは信仰や希望をつくり、幸せごっこをして遊ぶ貧しい子供のように、ケーキと呼んでいるパンの皮を食べて生きている。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  愛、睡眠、麻薬、麻酔薬は芸術の基本的な形、つまり芸術と同じ効果を生み出す。しかし愛、睡眠、麻薬にはどれも幻滅させられる。愛には飽きを感じ、幻滅する。睡眠からは目覚め、眠ってしまえば生きなかったことになる。麻薬は、刺激を受けたあの同じ肉体が荒廃するという代償を払う。しかし芸術には幻滅がない、最初から幻想が許されたからだ。芸術からは目覚めない、そこでは夢見るとしても眠らないからだ。芸術にはそれを娯しんだからといって支払う代償も罰金もない。

  芸術が与えてくれる悦びはある意味でわれわれのものでないので、われわれはその対価を支払う必要も、それを後悔する必要もない。

  芸術は、われわれのものでないにもかかわらず娯しませてくれるものすべてと理解される——通り過ぎた跡、他人に与えられた微笑み、入り日、詩、客観的な世界。

  手に入れるなら失う。手に入れずに感じるなら保持する、なぜなら、あるものからその本質を引き出すからだ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  もしある人が酔っているときしか、よい文が書けないなら、言ってやろう。酔いなさい、と。さらに、肝臓がそれでは弱るというのなら、答えてやる。あなたの肝臓とは何なのか? あなたが生きているあいだだけ、生きている物にすぎず、あなたの書く詩はずっと生きるのだ、と。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  芸術は行動や生活からの逃避だ。芸術は、感情を意志的に表現したものである生活とは違って、感情を知的に表現したものだ。持っていないものや、持とうという勇気のないものや、手に入れられないものを夢で手に入れることができ、その夢で芸術を創る。ときには、感情はひじょうに強いので、行動に変えられるが、変えられた行動では感情を満足させられない。残りの、生活で表現されなかった感情で、芸術作品が創られる。こうして、ふたつの型の芸術家がいる。持っていないものを表現する芸術家と、持っていたものの残りを表現する芸術家だ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  古典的な理想の衰退により、誰もが潜在的な芸術家になり、したがって悪い芸術家になった。芸術の基準が堅固な構築物、規範の注意深い遵守だったとき、芸術家たらんとする者は少なく、その大部分は優れていた。しかし、芸術が創造と考えられなくなり、感情表現と考えられるようになったとき、誰もが感情を持っているので、誰でも芸術家になりえたのだ。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  世界の支配はわれわれ自身のうちで始まる。世界を支配する者は誠実な者ではなく、また不誠実な者でもない。人工的で自動的な手段により真の誠実さを自分に作る者だ。その誠実さが彼の力になり、これが他人の虚偽性の低い誠実さを前にして光を放つ。うまく自分を欺くことが政治家に第一に必要とされる性質だ。詩人と哲学者だけにしか世界の現実的見方ができない、なぜなら、彼らだけにしか幻想を持たないことが許されないからだ。はっきり見えると、行動しないことになる。

 

高橋都彦 訳  

フェルナンド・ペソア「不安の書」

  わたしはと言えば、死人を見ると、死は旅立ちのように思われる。亡骸は残された衣服という印象がする。誰かが立ち去り、着ていたあの一張羅の服を持っていく必要がなかったのだ。

 

高橋都彦 訳