本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

アーシュラ・K. ル=グウィン「ファンタジーと言葉」

  読むというのは非常に神秘的な行為です。これまでに見ることが読むことの代わりをしたことは絶対に一度たりともありませんし、これからも、どんな種類にせよ、見ることは読むことに取って代わりはしないでしょう。見ることはまったく別な仕事で、その報酬も別の種類のものです。

  読んでいる読者が本を作る、本を意味へと導くのです。恣意的なシンボル、印刷された文字を、内的な、私的な現実へと変換するのです。読むことは行為、創造的な行為です。見ることはこれに比べると受け身です。映画を見ている観客は映画を作りはしません。映画を見るというのは映画のなかに取り込まれること——そのなかに参入すること——映画の一部になることなのです。映画に吸収されるのです。読者は本を食べますが、映画は観客を食べるのです。

  これはすばらしい体験になりえます。いい映画に食べられること、目と耳に導かれて、その映画を見なければ決して知ることのなかった現実へと誘われることは、すばらしいことです。でも、受け身であることは傷つきやすさ、影響されやすさを意味します。そして、メディアによるストーリー・テリングの多くがつけ込むのはここなのです。

  読むことは、テクストと読者の間の能動的なやりとりです。テクストは読者にコントロールされています——とばしたり、停滞したり、解釈したり、戻ったり、考え込んだり、ストーリーの流れに身を任せたり、それを拒んだり、判断したり、判断を修正したりと、読者は真にテクストと相互交流する時間と余裕を持っているのです。一冊の小説は、作家と読者との間の能動的で、同時進行的な共同作業なのです。

 

青木由紀子 訳  

アーシュラ・K. ル=グウィン「ファンタジーと言葉」

  話し手と聞き手の間の相互コミュニケーションは力強い行為である。個々の話し手の持つ力は、聞き手たちの同調によって増幅され、増大する。共同体の強さは、話を通じての相互的同調によって増幅され、増大されるのである。

  発話が魔術的であることの理由はここにある。言葉は本当に力を持っている。名前には力がある。言葉は話し手と聞き手の両方を変容させる。言葉はエネルギーを話し手から聞き手へ、聞き手から話し手へと伝え、それを増幅させる。言葉は理解や感情を話し手から聞き手へ、聞き手から話し手へと伝え、それを増幅させる。

 

青木由紀子 訳 

アーシュラ・K. ル=グウィン「ファンタジーと言葉」

    話し言葉は、最も特別に人間的な音であり、最も重要な種類の音であって、単なる景色であることは決してなく、常に出来事である。

  ウォルター・オングは言う。「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」。これは単純だけれども非常に複雑な陳述である。同じことを生について言うこともできるだろう。生は、それが消えようとするときにしか存在しない。

  ある本のページの上に印刷されている、「存在」という言葉について考えてみよう。それはそこに鎮座している。言葉全体が一時に、二つの文字が、白地に黒く、おそらく何年もの間、何世紀もの間、おそらく世界中の何千冊という本のなかに鎮座しているのだ。

  それでは、この言葉を口にしながら考えてみてほしい。「存在」。「在」と言うときにはすでに「存」は消えてしまっているし、今やすべてが消えてしまった。もう一度言うことはできるが、それは新しい別の出来事だ。

  聞き手に向かってある言葉を話すとき、話すことは一つの行為である。そしてそれは相互的な行為なのだ。聞き手が聞いていることが、話し手が話すことを可能にする。それは共有された出来事であり、相互主観的なものである。聞き手と話し手は互いに同調する。どちらのアメーバも等しく責任を持ち、等しく肉体的に、直接的に、自分たちの断片を共有しあうことに関わっている。話す行為は今起こっている。そして二度と取り消すことも、くり返すこともできないような仕方で終わってしまったのだ。

 

青木由紀子 訳 

トーベ・ヤンソン「彫刻家の娘」

  ほんとうに大切なものがあれば、ほかのものすべてを無視していい。そうすればうまくいく。自分の世界に入りこみ、目をとじて、おおげさな言葉を休まずつぶやきつづける。そのうち確信がもてるようになる。

 

冨原眞弓 訳  

トーベ・ヤンソン「彫刻家の娘」

  幻想の人たちが霧のようにぼんやりして消えてしまうときには、いつも悲しい気持ちになる。ちゃんと物語を組みたてようとしても、やっぱり影も形もなくなってしまう。そうなると語りつづけてもむだだ。ますますばかばかしくなり、よけいにひとりぼっちになるだけだ。

 

冨原眞弓 訳  

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の仲間たち」

「そのちょうしでいくと、おまえはたちまち、おとなになるな。パパやママみたいになって、さぞ世間の役にたつことだろう。そうなったら、おまえはただありきたりのことしか、見たりきいたりしないんだ。いっとくけど、そりゃなんにも見ず、ききもしないってことだぞ。そうなったら、もうおしまいだな。」

 

山室静 訳  

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の仲間たち」

——なぜみんなは、ぼくをひとりでぶらつかせといてくれないんだ。もしぼくが、そんな旅のことを人に話したら、ぼくはきれぎれにそれをはきだしてしまって、みんなどこかへいってしまう。そして、いよいよ旅がほんとうにどうだったかを思いだそうとするときには、ただ自分のした話のことを思い出すだけじゃないか。

 

山室静 訳  

東宏治「ムーミンパパの『手帖』」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界

  心のなかに所有するとは、つまり記憶することであるが、それを不用意にことばにして喋ってしまうと(つまり形式化すると)、今度はそのことば(形式)だけが記憶に残って生きながらえ、美しいものの記憶が消えてしまう。美はそれほどに脆いものなのだ。しかし、そもそも記憶自体も脆いものであって、ことばにしないで所有しているつもりの美しいものの記憶もまた、やがては消えてしまうだろう。そういうとき、ことばという形式をまとわせておけば、その美しいものの記憶をよみがえらせるための、開けごまの呪文のようなものになるかもしれない。ここに、美しいものをめぐって、沈黙することとことばにすることとの間のジレンマがあるのだ。その解決のための方法は、いつかは決定的なことばにするにしても、それをぎりぎりまでのばすことだろう。そしてその間に、何度も何度も、沈黙したままで「美しいもの」(書くべき対象)を思い出すことだろう。ことばにしないで対象(美しいものの記憶)を何度も思い出すことは、いわば美しい壺のまわりをぐるぐると見てまわるようなもので、それまで気づかなかった面も見えるようになり、その書くべき対象に奥行きを与えるということだ。

中島義道「ひとを〈嫌う〉ということ」

  私が——不遜ながら——自己変革を要求したい人は、こういう善良かつ盲目な人に対してです。こんなに一生懸命にしているのに、報われない。あたりまえです。人生とはその労力に比例して報われないことが自然だからです。こんなに訴えているのにわかってもらえない。あたりまえです。人生とはどんなに訴えてもわかってもらえないのが自然だからです。

  善良な人は、「よいこと」を自然だと思い込んでいる。しかし、これは単なる理念なのです。要請なのです。むしろ、自然が逆であるからこそ、われわれはよくありたいと望む。嫌い合うことは自然なのです。だからこそ、われわれは嫌い合いたくないと望む。両者をはっきりと区別しなければなりません。

  人間同士が嫌い合うことを素直に認めることから、むしろ他人に対する温かい寛大な態度が生まれてくる。他人を嫌うことを恐れている人、他人から嫌われることを恐れている人は、自分にも他人にも過剰な期待をしている。それは、たいへん維持するのが難しい期待であり、ささいな振動によってガラガラ崩れてしまいます。ですから、こういう人はかえって人間不信に陥ってしまうのです。

 逆に、他人を嫌いになるのはあたりまえ、他人から嫌われるのはあたりまえと居直っていますと、意外に嫌いではない人が出てきて、あるいは意外に意外に嫌われることがないことがわかって感動する。「ほのかな嫌い」は、それを発散させることができないことにより、怨念へ、怨根へ、憎悪へと移行してゆく。このメカニズムを知っていますので、私はなるべく軽いうちに「嫌い」を公共空間に発散させることにしています。

  なぜ、われわれは「嫌い」を発散させないのか?それは、何といっても自分を守るためです。他人に嫌われたくないためです。ですから、それをやめてしまえば、つまり他人から少しでも嫌われたくないという願望は維持するのが土台無理なんだと悟ってしまえば、嫌われてもその辛さが自分を豊かにすると考えてしまえば、そんなに難しくはない。

中島義道「ひとを〈嫌う〉ということ」

  善人とは他人と感情を共有したい人のことです。他人が喜ぶときには共に喜び、悲しむときには共に悲しむ。自分が喜ぶときも、他人も同じように喜んでもらいたい。自分が悲しいとき、他人も同じように悲しんでもらいたい。こうして、たえずとりわけ近い他人のことを心配し、気にかけ、成長を楽しみにし、失敗しないかとはらはらし……そして成功するとわがことのように喜ぶ。失敗してもいい。無念の涙を流してくれれば。しかし、失敗して平然としていてはならない。成功して傲慢になってもいけない。小成に安んじてもいけない。ああしてもいけないこうしても駄目だ、と全身目にして期待を寄せる。

  しかし、ここに留まりません。彼ら(近い他人)も同じように自分を気にかけてもらいたい。期待してもらいたい。自分の人生の一コマ一コマに関して「わがこと」のように一喜一憂してもらいたい。こうして、たえず他人と「同じ感情」を共有することに絶大な喜びを覚える。でないと、たちまち不安を覚えるのです。

  

  いつも個人の信念を確認することにより、それを滑らかに平均化して、毒を抜くことばかりに勤しんでいる。気がついてみると、いつも穏やかな宥和状態が実現されている。それはそれで価値があることですが、真に対立を直視した後の宥和ではありませんから、そこには嘘がある。無理がある。思い込みがある。幻想がある。

中島義道「人間嫌い」のルール

したいことをしない人生はつまらない。なぜ多くの人は、どうせ死んでしまうのに、したいことをしないのであろう?安全な人生を歩もうとするのであろう?もちろん、したいことをした結果、刑務所にぶち込まれるかもしれない。飢え死にするかもしれない。だが、「したいことをする」とは、いつもそういう危険と背中合わせなのだ。絶対安全であり、かつしたいことができたらいいなあ、と思っている人は、いつまでもしたいことができないであろう。そんな虫のいいことはこの世ではありえない。

  したいことをするという信念を(ある程度)実現している人は、他人がしたいことをしていても、嫉むことはない。したいことをしている人を嫉むのは、決まって自分がそれをしていない人である。また、したいことをしようとして失敗した人は、したいことをしないままに人生を終えるよりずっと豊かで充実していると思う。

  親に反対されたから、妻子を養わねばならないから、勇気がないから、才能がないから……という理由をどんなに並べても無駄である。ほとんど同語反復であるが、ほんとうにしたいことなら、誰がどんなに反対しても、自分がどんなに迫害されても、まわりの者がどんなに不幸になっても、するはずだからである。こうした理由をもってあきらめることが「できる」のは、それほどしたいことではないからなのだ。人間には二通りのはっきり異なったタイプがある。その一つは、いかなる犠牲を払ってもしたいことをするタイプであり、もう一つは、健康、手堅い職業、人との良好な関係などから成る「安全」を最高の価値とするタイプである。

中島義道「人間嫌い」のルール

  世間のうちで生きていくこと、それはたえまなく「したくないこと」をしなければならないことである。だが、これはそれ自体美徳ではなく、社会が滅亡しないための——それだけのための——必要悪である。だから、社会の存続をそれほど重視しない人間嫌いにとっては、したくないことをなるべくしないことは、人生の目標になりうるのだ。

  この場合、他人の自己中心主義も同じように認めることが必要である。道徳的理由からではない。そのほうが、風通しがよく、結局(人間嫌いである)あなたが生きやすくなるからである。自信をもったおおらかな自己中心的な人が私は好きである。これを実現しているのは大方、特殊な才能があり、しかもそれを支える特殊な感受性が社会で認められている人である。

  私の体験的実感からすると、この意味で自己中心的な人は、自分の「わがまま」をよく心得ているので、他人の自己中心主義をも尊重する。つまり、それを尊重して近づくか遠ざかるかであって、それを侵害しようとはしない。

  自己中心的な人を嫌うのは、自己中心的であることができない人、そうありたくても我慢している人である。自分もこんなに我慢しているんだ、世の中そんなに甘くはないぞ、だからお前もそんな夢みたいなことを考えずに、もっと大地に足をつけて現実をよく見ろ……というわけである。

中島義道「人間嫌い」のルール

  人間嫌いは、あらゆる人間からの独立を目指すと同時に、あらゆる土地、風土、故郷からの独立を目指す。私もそうであるが、本質的にデラシネ(根無し草)なのだ。自分の故郷、自分の通った小学校、自分の学んだ大学などに強い郷愁を覚える者は、人間嫌いという生き方と両立しないであろう。そこには私の過去を知る膨大な数の普通の人間たちがいて、共感ゲームや「みんな一緒主義」の横溢する場だったはずだからである。

中島義道「人間嫌い」のルール

 というわけで、(ニーチェの考察を深めて考えれば)同情は四重の非道徳的行為である。(1)同情を求める卑劣なルサンチマンとの共謀行為であるゆえに、(2)相手を見下しているゆえに、(3)それにもかかわらず見下していないと自分を欺くゆえに、そして(4)その結果、自分はよいことをしたと満足し自己愛を充たすことゆえに。