本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

トーマス・シェリング 「ミクロ動機とマクロ行動」第5章

  プライバシーを大切にする人は、プライバシーを大切にする人と付き合う。必ずしもその人が好きだからではなく、プライバシーが守られるからだ。犬が嫌いな人は、犬嫌いな人といることを好む。必ずしもその人が好きだからではなく、単に犬がいないからだ。にぎやかなところが好きな人は、やはりそういう人たちでにぎわっているところへ出かけて行くが、必ずしもその人たち自身を好きなわけではない。年金制度に加入しようとする人は、短命な人の加入を歓迎するが、だからといってもうすぐ死ぬ人と友達になりたいわけではない。

 

村井章子 訳  

L・ヴァン・デル・ポスト 「影の獄にて」剣と人形

子供のころからすでに彼女は、自分自身の運命がどう転ぼうと、人生は生きる価値があることを証してくれるにちがいないと信じて疑わなかったという。ほんの一年まえ、ナチがオランダを占領し、彼女はそれから逃れてきたのだが、その占領に続いた絶望の崩壊のなかにあってさえ、耐え抜く特権を与えられている者にとっては、どんなことも結局のところ価値があることを、決して疑ったことはなかった。生のリズム・理由・観念、または生の一時的停止の以前と彼方から流れて止まない無限の生命の連続にたいする、彼女の信念は非常に深かったから、信念の一形式というよりもむしろ、この女の心のなかに組み込まれた一種論駁しがたい知識のように見えたものだ、とロレンスは強調するのだった。

 

由良君美 富山太桂夫 訳    

L・ヴァン・デル・ポスト 「影の獄にて」種子と蒔く者

  こんな調子で時がたった。わたしの戦闘の腕はメキメキ上達した。とりわけ、いま話したような急襲が得意だったために、大隊から選抜されて、敵の戦線のずっと後方にまわる急襲計画の立案と指揮をやらされることになった。急襲から戻ってくると、息抜きの休暇をとりたまえよ、と言われる。そのたびにわたしは焦だって、勤務の続行を願いでるばかりであった。困難で危険な作戦行動には必ず志願した。そんな作戦行動に加わるか、下準備をするかという生活が、一年以上も続いた。わたしは戦争以外のことにかかずらう時間をまるで作らなかったし、またそれによって例の影からのがれようとしたのだが、影のほうがはるかに上手だった。影はどこまでもついてくる。目ざめた直後とか戦闘のさなかに、砂丘のかげで銃剣の手いれをする男たちの顔に、突撃のときの無機的な叫び声のなかに、不意打ちをくらってトビカモシカのように旋回する敵の姿のなかに、焼け落ちてくすぶるわが家のそばに子供とともに座り込んだ百姓女を目にしたときに、あるいは深い眠りの門をくぐりぬけ、かぎりなく優しい夢の奧処までも、影が長いスカートをひらつかせる。わたしも抵抗してはみたのだ。しかし、特命をおびて砂漠から突然パレスチナに派遣されていなかったとしたら、どこでこんな状態に終止符が打たれたことか、わたしには判らない。

 

由良君美 富山太桂夫 訳   

L・ヴァン・デル・ポスト 「影の獄にて」種子と蒔く者

  セリエは語り出していた。「不思議だな、あの星はぼくのあとを追ってくるようだ。冬、アフリカの高地平原の空に昇ったところか、ベツレヘムの手前の丘陵の上に出たところを、見せたいね。バンタムのジャングルで真昼に見つけたこともある——でも、今夜ほど綺麗ではなかった。」そこで言葉を切ると、足もとの地面に眼をおとした。午後の激しい驟雨のせいで、大地はまだ濡れて光っていた。「見ろ!」と彼は叫んだ。その声が驚愕で若々しい。「影までできている。君の後を見てみろよ。星の影が忠実に君について回っている。星でも影ができるというのは、不思議だねえ。」

 

「聞いたかい」とわたしはセリエに尋ねた。「ぼくと同じくらいあの声を聞き慣れていたら、君にもあれがただ事でないのが判るだろう。衛兵は毎晩この時刻に交替する。でも命令の声が違うんだ。緊張でピリピリしてる。連中のなかにこみあげてくるものがつかえていて。山の向こうの雷鳴のようなものさ。」
「わかる。」返事がはね返ってきた。「どうやら意見が一致したらしい。ぼくにも処刑前の雰囲気はわかる。来るまで待つしかない。もしそうなって、ぼくが先頭に立たねばならなくなったら、約束する、躊躇はしない。考えるのはそのあとだ……」
  二人は黙ってそこに立っていた。生垣のひとつに、地下の奥深くにある火から飛んだ火花の雨のように、蛍が光り始めた。ふたたび門のところで、衛兵の、みぞおちのあたりから絞り出すような奇妙な声が、夜に響く。残照すら消えはて、星の光と遠くに走る稲妻だけが闇を乱すばかりだ。足もとの濡れた大地がいま古い鏡と化し、われわれの足は星のなかにあった。
  セリエはもう一度静かな声で言った。「ぼくには星を出し抜くことなんかできない。あの星と同じで、夜のなかにすっかり浸りきっていて、ひとつの影を引いていくんだ。」

 

由良君美 富山太桂夫 訳  

L・ヴァン・デル・ポスト 「影の獄にて」種子と蒔く者


「ね、分るだろう」とロレンスは感きわまった低い声で言った。「はるかな古里で弟が兄のなかに蒔いた種子は、沢山の土地に植えつけられたんだよ。あのジャワの捕虜収容所にもね。そうなんだ、日本兵がセリエをあんなふうに殺したことだってね、実は知らず知らず、セリエの行為の孕んでいた種子に、気づいていたことを物語るものがある。生き埋めにしたことだって、そうだ。新しい若木のように、まっすぐ彼を地中に植えつけたんだからね。日本兵がセリエの行為を非認した、その非認の仕方そのものが実は、拒否されたものの、厳たる存在を認めていたことになるんだよ。その後、ヨノイの手で、日本の丘陵と霊のうえに植えられ、いまここでも、こうして、きみとぼくのなかに、その種子は生い育っているじゃないか。」

 

由良君美 富山太桂夫 訳    

L・ヴァン・デル・ポスト 「影の獄にて」影さす牢格子

どことなく類人猿を思わせる、先史時代物のハラの顔は、ロレンスがかつてみたことのない美しいものに変わっていた。その顔、その古代の瞳に宿る表情。あまりにも心を動かされた彼は、思わずもう一度、独房のなかに戻ってゆきたい衝動にかられた。実際、彼は行こうとしかけたのだが、なにかが、彼を押しとどめてゆかせなかった。深い、本能的な、自然のままの、衝動的な彼の半身は行こうとした。行ってハラをしっかりと腕に抱き、額に別れのくちづけをし、そして、こう言いたかった。「外の大きな世界の、がんこな昔ながらの悪行をやめさしたり、なくさせたりすることは、ぼくら二人ではできないだろう。だが、君とぼくの間には、悪は訪れることがあるまい。これからゆく未知の国を歩む君にも、不完全な悩みの地平をあいかわらず歩むぼくにも。二人のあいだでは、いっさいの個人の、わたくしの悪も帳消しにしようではないか。個人や、わたくしのいきがかりは忘れて、動も反動も起こらないようにしよう。こうして、現代に共通の無理解と誤解、憎悪と復讐が、これ以上広まらないようにしようではないか」と。しかし、その言葉はとうとう口からは出なかった。扉のわきに立つ、士官としての彼の意識した半身は、疑ぐりぶかい、油断ない歩哨につき添われたまま、扉の敷居に立ちつくして、ついに彼をハラのところに走らせなかったのだ。こうして、ハラとその黄金の微笑には、これを最後と、扉が閉ざされてしまった。

だが、街に帰ってゆく道すがら、あのハラの最後の表情が、ロレンスの脇を、ずっと寄り添うように付いていた。なぜ戻ってやらなかったのかと、彼は、深い後悔の気持ちでいっぱいになっていた。彼をゆかせなかった、お上品ぶった半身は、いったい何なのだろう? あのとき、彼が戻ってやっていたら、いまごろ彼は、歴史の全行程を変えることができたような気持ちを味わえていたかもしれない。なぜなら、大きなことも、もともと、騒然たる個人の心のなかに生じた小さい変化のささやかな種子から始まるものではなかったか。わずかひとつの、孤独な、無経験な心が、まず第一に変わり、それから、他のすべてのものが、それにならうべきなのではないだろうか。謙虚で、従順で、悔い改めた個人の心のなかに起こった真実の変化——いっさいの理屈を抜きにして、その変化を全身全霊をこめて表現しようとする無垢のこころの最初のほのかなときめきを受け入れ、考えるまえにまず、その新しい意味を生きてみようとするほどの謙虚な心。その心に真実の変化が生じれば、すべての人は昼が夜に従うように、従ってくるだろう。そうすれば、傷が仕返しの傷を生み、その傷がさらに仕返しの復讐を生むという昔ながらの悪循環の輪は断たれ、もうひとめぐりを重ねることは永久になくなるだろう。

*戦中捕虜収容所でハラ(日本軍)から虐待されたロレンスは、戦後死刑宣告を受けたハラを処刑前夜に訪問する。

由良君美 富山太桂夫 訳

村上春樹 「風の歌を聴け」

「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。
「そりゃそうさ。みんないつかは死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」  

ヘルマン・ヘッセ 「車輪の下」

学校の教師は自分の組に、ひとりの天才を持つより、十人の折り紙つきのとんまを持ちたがるものである。よく考えてみると、それももっともである。教師の役目は、常軌を逸した人間ではなくて、よきラテン語通、よき計算家、堅気な人間を作りあげる点にあるのだからである。

 

高橋健二 訳  

ヘルマン・ヘッセ 「車輪の下」

先生たちはいつも、死んだ生徒を生きている生徒に対するとはまったく違った目で見るものである。死んだ生徒に対すると、先生たちはふだんはたえず平気で傷つけている一つ一つの生命や、青春のとうとさや、取り返しがたさをしばしのあいだ強く感ずるのである。

 

高橋健二 訳    

シモーヌ・ヴェイユ 「シモーヌ・ヴェイユ詩集」


夜 遠くの空を満たして燃えている星たちよ、
いつも凍るように冷たく何も見ずに黙ってめぐる星たちよ、
お前たちは昨日の日々をわれわれの心の外へと引き出し、
お前たちはわれわれの同意なしにわれわれを明日へと投げる。
そしてわれわれは嘆き悲しむ、だが、われわれのお前たちに向けた叫びはすべてむなしい。
そうしなければならないので われわれはお前たちの後についてゆく、腕を縛られ、
お前たちの純粋だがきびしい光の方へと眼を向けて。
お前たちを見ていると どんな苦悩も大したことではなさそうだ。
われわれは沈黙し われわれの行く道の上でよろめく。
その時 心の中に 突然 彼らの神聖な火が現われる。

 

小海永ニ 訳    

カヴァフィス 「カヴァフィス全詩集 第二版」

忘却


        温室に閉じこめられた
ガラス・ケースの中の花たちは
        陽の輝かしさを忘れ
露けき涼風の吹き過ぎ行く心地を忘れている。

 

中井久夫 訳  

カヴァフィス 「カヴァフィス全詩集 第二版」

九時から


十二時半。九時からの時間の早さ。
明かりを点けてここに座ったのは九時。
本も読まず、口も開かずにずっと座っていた。
家の中は私独り。
誰に話しかけろというんだ?

 

九時に明かりを点けた時から、
若かった私の身体の影が私に憑いて、
思い出させた、過去の情熱を閉じこめた
むせかえる香の部屋部屋を。

 

いかにも大胆だったあの情熱。
影は私に返してくれた、
今は当時の面影のない巷の町々をも。
賑わったナイトクラブも今は店を閉じた。
劇場もカフェももうない。

 

若かった私の身体の影は
われらの悲しみの種子をも返した。
家族の悲傷、別離。
世に知られざる死者より成る
私の同族感覚。

 

十二時半。時間の経過のいかに疾き。
十二時半。過ぎし歳月のいかに多き。

 

中井久夫 訳  

カヴァフィス 「カヴァフィス全詩集 第二版」

せめて出来るだけ


思いどおりに人生を創れなくとも、
せめてやってみろ、出来るだけ、
人生の品質を下げぬようにと。
世間とは接触しすぎるな。
動きすぎるな、話しすぎるな。

 

人生を広げ過ぎるな、
引き廻すな、
社交やパーティのくだらぬ日々に
人生を曝し過ぎるな。
そういうものは品質を下げる。
人生が退屈な居つづけ客になる。

 

中井久夫 訳    

カヴァフィス 「カヴァフィス全詩集 第二版」

単調


単調な日が単調な日を追う。
どこも違わぬ日。
違わぬことが来る。また来る。
違わない瞬間が我等を捉え、放つ。

 

ひと月にひと月がつづく。
何が来るか ほぼ見通しずみ。
昨日と同じ退屈ばかりが来て、
明日が「明日」でなくなる。

 

中井久夫 訳    

カヴァフィス 「カヴァフィス全詩集 第二版」


死者の声。理想化された いとしい声。
死者のでも 死者同然に近寄れない
私を去ったひとの声でも。

 

そのひとたちが話しかけてくることがある、夢の中で。
深い思いに沈んでいる時には こちらのこころが
声を聴く、たまさかながら。

 

ああ その音調。刹那 音調が戻ってくる。
わが人生の最初の詩から帰ってくる。
深夜、つかの間に消えゆく遠い音楽。

 

中井久夫 訳