本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

トーベ・ヤンソン「彫刻家の娘」

  幻想の人たちが霧のようにぼんやりして消えてしまうときには、いつも悲しい気持ちになる。ちゃんと物語を組みたてようとしても、やっぱり影も形もなくなってしまう。そうなると語りつづけてもむだだ。ますますばかばかしくなり、よけいにひとりぼっちになるだけだ。

 

冨原眞弓 訳  

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の仲間たち」

「そのちょうしでいくと、おまえはたちまち、おとなになるな。パパやママみたいになって、さぞ世間の役にたつことだろう。そうなったら、おまえはただありきたりのことしか、見たりきいたりしないんだ。いっとくけど、そりゃなんにも見ず、ききもしないってことだぞ。そうなったら、もうおしまいだな。」

 

山室静 訳  

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の仲間たち」

——なぜみんなは、ぼくをひとりでぶらつかせといてくれないんだ。もしぼくが、そんな旅のことを人に話したら、ぼくはきれぎれにそれをはきだしてしまって、みんなどこかへいってしまう。そして、いよいよ旅がほんとうにどうだったかを思いだそうとするときには、ただ自分のした話のことを思い出すだけじゃないか。

 

山室静 訳  

東宏治「ムーミンパパの『手帖』」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界

  心のなかに所有するとは、つまり記憶することであるが、それを不用意にことばにして喋ってしまうと(つまり形式化すると)、今度はそのことば(形式)だけが記憶に残って生きながらえ、美しいものの記憶が消えてしまう。美はそれほどに脆いものなのだ。しかし、そもそも記憶自体も脆いものであって、ことばにしないで所有しているつもりの美しいものの記憶もまた、やがては消えてしまうだろう。そういうとき、ことばという形式をまとわせておけば、その美しいものの記憶をよみがえらせるための、開けごまの呪文のようなものになるかもしれない。ここに、美しいものをめぐって、沈黙することとことばにすることとの間のジレンマがあるのだ。その解決のための方法は、いつかは決定的なことばにするにしても、それをぎりぎりまでのばすことだろう。そしてその間に、何度も何度も、沈黙したままで「美しいもの」(書くべき対象)を思い出すことだろう。ことばにしないで対象(美しいものの記憶)を何度も思い出すことは、いわば美しい壺のまわりをぐるぐると見てまわるようなもので、それまで気づかなかった面も見えるようになり、その書くべき対象に奥行きを与えるということだ。

中島義道「ひとを〈嫌う〉ということ」

  私が——不遜ながら——自己変革を要求したい人は、こういう善良かつ盲目な人に対してです。こんなに一生懸命にしているのに、報われない。あたりまえです。人生とはその労力に比例して報われないことが自然だからです。こんなに訴えているのにわかってもらえない。あたりまえです。人生とはどんなに訴えてもわかってもらえないのが自然だからです。

  善良な人は、「よいこと」を自然だと思い込んでいる。しかし、これは単なる理念なのです。要請なのです。むしろ、自然が逆であるからこそ、われわれはよくありたいと望む。嫌い合うことは自然なのです。だからこそ、われわれは嫌い合いたくないと望む。両者をはっきりと区別しなければなりません。

  人間同士が嫌い合うことを素直に認めることから、むしろ他人に対する温かい寛大な態度が生まれてくる。他人を嫌うことを恐れている人、他人から嫌われることを恐れている人は、自分にも他人にも過剰な期待をしている。それは、たいへん維持するのが難しい期待であり、ささいな振動によってガラガラ崩れてしまいます。ですから、こういう人はかえって人間不信に陥ってしまうのです。

 逆に、他人を嫌いになるのはあたりまえ、他人から嫌われるのはあたりまえと居直っていますと、意外に嫌いではない人が出てきて、あるいは意外に意外に嫌われることがないことがわかって感動する。「ほのかな嫌い」は、それを発散させることができないことにより、怨念へ、怨根へ、憎悪へと移行してゆく。このメカニズムを知っていますので、私はなるべく軽いうちに「嫌い」を公共空間に発散させることにしています。

  なぜ、われわれは「嫌い」を発散させないのか?それは、何といっても自分を守るためです。他人に嫌われたくないためです。ですから、それをやめてしまえば、つまり他人から少しでも嫌われたくないという願望は維持するのが土台無理なんだと悟ってしまえば、嫌われてもその辛さが自分を豊かにすると考えてしまえば、そんなに難しくはない。

中島義道「ひとを〈嫌う〉ということ」

  善人とは他人と感情を共有したい人のことです。他人が喜ぶときには共に喜び、悲しむときには共に悲しむ。自分が喜ぶときも、他人も同じように喜んでもらいたい。自分が悲しいとき、他人も同じように悲しんでもらいたい。こうして、たえずとりわけ近い他人のことを心配し、気にかけ、成長を楽しみにし、失敗しないかとはらはらし……そして成功するとわがことのように喜ぶ。失敗してもいい。無念の涙を流してくれれば。しかし、失敗して平然としていてはならない。成功して傲慢になってもいけない。小成に安んじてもいけない。ああしてもいけないこうしても駄目だ、と全身目にして期待を寄せる。

  しかし、ここに留まりません。彼ら(近い他人)も同じように自分を気にかけてもらいたい。期待してもらいたい。自分の人生の一コマ一コマに関して「わがこと」のように一喜一憂してもらいたい。こうして、たえず他人と「同じ感情」を共有することに絶大な喜びを覚える。でないと、たちまち不安を覚えるのです。

  

  いつも個人の信念を確認することにより、それを滑らかに平均化して、毒を抜くことばかりに勤しんでいる。気がついてみると、いつも穏やかな宥和状態が実現されている。それはそれで価値があることですが、真に対立を直視した後の宥和ではありませんから、そこには嘘がある。無理がある。思い込みがある。幻想がある。

中島義道「人間嫌い」のルール

したいことをしない人生はつまらない。なぜ多くの人は、どうせ死んでしまうのに、したいことをしないのであろう?安全な人生を歩もうとするのであろう?もちろん、したいことをした結果、刑務所にぶち込まれるかもしれない。飢え死にするかもしれない。だが、「したいことをする」とは、いつもそういう危険と背中合わせなのだ。絶対安全であり、かつしたいことができたらいいなあ、と思っている人は、いつまでもしたいことができないであろう。そんな虫のいいことはこの世ではありえない。

  したいことをするという信念を(ある程度)実現している人は、他人がしたいことをしていても、嫉むことはない。したいことをしている人を嫉むのは、決まって自分がそれをしていない人である。また、したいことをしようとして失敗した人は、したいことをしないままに人生を終えるよりずっと豊かで充実していると思う。

  親に反対されたから、妻子を養わねばならないから、勇気がないから、才能がないから……という理由をどんなに並べても無駄である。ほとんど同語反復であるが、ほんとうにしたいことなら、誰がどんなに反対しても、自分がどんなに迫害されても、まわりの者がどんなに不幸になっても、するはずだからである。こうした理由をもってあきらめることが「できる」のは、それほどしたいことではないからなのだ。人間には二通りのはっきり異なったタイプがある。その一つは、いかなる犠牲を払ってもしたいことをするタイプであり、もう一つは、健康、手堅い職業、人との良好な関係などから成る「安全」を最高の価値とするタイプである。

中島義道「人間嫌い」のルール

  世間のうちで生きていくこと、それはたえまなく「したくないこと」をしなければならないことである。だが、これはそれ自体美徳ではなく、社会が滅亡しないための——それだけのための——必要悪である。だから、社会の存続をそれほど重視しない人間嫌いにとっては、したくないことをなるべくしないことは、人生の目標になりうるのだ。

  この場合、他人の自己中心主義も同じように認めることが必要である。道徳的理由からではない。そのほうが、風通しがよく、結局(人間嫌いである)あなたが生きやすくなるからである。自信をもったおおらかな自己中心的な人が私は好きである。これを実現しているのは大方、特殊な才能があり、しかもそれを支える特殊な感受性が社会で認められている人である。

  私の体験的実感からすると、この意味で自己中心的な人は、自分の「わがまま」をよく心得ているので、他人の自己中心主義をも尊重する。つまり、それを尊重して近づくか遠ざかるかであって、それを侵害しようとはしない。

  自己中心的な人を嫌うのは、自己中心的であることができない人、そうありたくても我慢している人である。自分もこんなに我慢しているんだ、世の中そんなに甘くはないぞ、だからお前もそんな夢みたいなことを考えずに、もっと大地に足をつけて現実をよく見ろ……というわけである。

中島義道「人間嫌い」のルール

  人間嫌いは、あらゆる人間からの独立を目指すと同時に、あらゆる土地、風土、故郷からの独立を目指す。私もそうであるが、本質的にデラシネ(根無し草)なのだ。自分の故郷、自分の通った小学校、自分の学んだ大学などに強い郷愁を覚える者は、人間嫌いという生き方と両立しないであろう。そこには私の過去を知る膨大な数の普通の人間たちがいて、共感ゲームや「みんな一緒主義」の横溢する場だったはずだからである。

中島義道「人間嫌い」のルール

 というわけで、(ニーチェの考察を深めて考えれば)同情は四重の非道徳的行為である。(1)同情を求める卑劣なルサンチマンとの共謀行為であるゆえに、(2)相手を見下しているゆえに、(3)それにもかかわらず見下していないと自分を欺くゆえに、そして(4)その結果、自分はよいことをしたと満足し自己愛を充たすことゆえに。

中島義道「人間嫌いのルール」

  いかなるものに対して共感すべきかは共同体の有する倫理的風土であって、その風土の中で個人の共感能力は形成される。しかも、これは理詰めではなく、きれいごとではない。与えられた共同体のうちで期待される共感のスキルと態度が、個々人のからだに容赦なく叩き込まれるのだ。友達が転んで泣いているのを見て「わーい、わーい」とはやしたてる子は共感能力がないとみなされて激しく叱られる。北朝鮮に拉致された家族の苦しみを伝え聞いても「なんともない」と答える男は、道徳的に裁かれる。

  こうした暴力的状況を察知して、人々はみな(とりわけ公共空間では)「現に共感していること」ではなく、「共感すべきこと」を一斉に語りはじめる。こうして、共感は演技を呼び起こす。共同体においてプラスの価値を有する事柄に対して共感する者は賞賛され、それに共感しない者は非難されるがゆえに、その共同体で生きていくために、人々は必死になって共感を演技するようになる。すなわち、各人に固有の感情形成とそれを押し隠す演技力の形成は同時に遂行されるのである。

  (西洋型)現代社会では、とりわけ被差別者をはじめとする弱者に対する共感=同情が規範化されており、そこに壮絶な「共感ゲーム」が繰り広げられている。身体障害者の苦労に共感=同情しない輩、人種差別を受けた者に共感=同情しない輩は社会から葬り去られる。この恐ろしいゲーム状況において、多くの者は生きながらえるために共感=同情しているふりをする(演技する)のである。

 

トルストイ「生きる武器を持て」

  本当の幸福はすぐに獲得できるものではなく、努力し続けることによって得られるのだ。なぜなら、本当の幸福は、完成に向けたたゆまぬ努力の中にこそ存在するからだ。——智恵の暦

 

宮原育子 訳