本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

角幡唯介「極夜行」

  ところが光がないと、心の不安の源である空間領域におけるリアルな実体把握が不可能となる。周囲の山の様子が見えないと、当然、自分が今どこにいるか具体的に分からない。居場所が分からなければ、近い将来、正しくない場所に行ってしまったり家に帰れなかったりする危険があるわけで、その結果、具体的な未来の自分の行動が予測不可能となり、明日生きている自分をリアルに想像できなくなる。つまり地図の中で自分の居場所が分からないと、単に空間的な存立基盤を失うだけでなく、自分の将来がどうなるか分からなくなることになり時間的な存立基盤も同時に失うわけだ。つまり闇は人間から未来を奪うのである。

  闇に死の恐怖がつきまとうのは、この未来の感覚が喪失してしまうからではないだろうか。闇は人間の歴史のなかで常に冥界や死と関連付けられてきたが、その恐怖の本質は闇そのものにあるのではなく、自己の内部で漠然と構築されていた生存予測が闇によって消滅させられてしまうことにあるのだ。

 

角幡唯介「極夜行」

  この現実の経験世界に存在するあらゆる事物と同様、人間の存在もまた時間と空間の中にしっかりとした基盤をもつことで初めて安定する。安定するためには光が必要である。なぜなら光があれば自己の実体を周囲の風景と照らしあわせて、客観的な物体としてその空間の中に位置づけることができるからである。たとえば周囲の山の様子が見えれば、あの山とこの山の中間ぐらいに自分は立っているというふうに、今の自分の空間的位置づけを客観的かつリアルな実体として把握することができるだろう。そしてリアルに空間把握できれば、あの山とこの山の中間にいるから、今日はその間の川を下って海に釣りにでも行こう、などと未来の自分の行動を組み立てることもできる。このように具体的に未来予測できれば、少なくともその予測している期間の自分を生きている実体として想像できるわけだから、その間は死の不安から解放される。このように光があると人間の存立基盤は空間領域において安定し、同時に時間領域においても安定し、心安らかに落ち着くことができる。光は人間を見通す力と心の平安を与えるのである。それを人は希望という。つまり光とは未来であり、希望だ。

 

角幡唯介「極夜行」

  氷床行進中から延々とつづいてきた、この漠然とした、とりとめのない、まったく不確かな感じ。闇によって視覚情報が奪われることで、己の存在基盤が揺るがされる感じ。普段の生活で意識せずに享受しているがっちりとした揺るぎない世界から浮遊し、漂流している感じ。それらの感じから感じられる己の命の儚さや心もとなさ。ここにこそ極夜世界の本質はあるのかもしれない。

  歩きながら私はこんなふうに考えていた。

  人間が本能的にもつ闇にたいする恐怖は、よく言われるように原始時代に野生生物に襲われたときの記憶が集合意識に残っているから、とかそういうことでは多分なくて、単純に見えないことで己の在立する基盤が脅かされていることからくる不安感から生じるのではないだろうか。

 

角幡唯介「極夜行」

テクノロジーの本質は人間の身体機能の延長であり、あるテクノロジーが開発されると、人間は本来、己の身体にそなわっていた機能をそのテクノロジーに移しかえて作業を委託することができる。そうすると作業効率は高まり仕事は迅速になって社会は発展するが、一方で個人レベルに目を移すと、人間が自分の手を汚して作業する機会は減り、それまで作業プロセスをつうじて達成されていた外側の世界との接点が失われるので、外界を知覚できなくなる。昔は車を運転するには地図を見て周囲を確認するという作業が必要で、そのプロセスを踏むことで運転者は道をおぼえた。言いかえれば外界を自らの身体に取り込み世界化することができていた。ところがカーナビはこの作業プロセスをすべて省略するので、運転者は外界と関与する機会を失って道を覚えられなくなるのだ。便利になることと引き換えに人間は外界との接触点を失い、それまで知覚できていた外界がするりとこぼれ落ちて、その人間がもつ世界はまたひとつ貧弱なものとなるのである。

マルサス「人口論」第18章

  まさしく人生の厳しさが人間の才能を育てるのである。日常の経験によって、われわれはそれを確信できる。われわれは自活するため、あるいは家族を養うためにがんばらねばならないが、まさにその努力が自分の才能を開花させるのである。努力することがなければ、能力はずっと眠ったままであったろう。そして、よくいわれるとおり、人間はいままで出会ったことのない異常な事態にまきこまれると、それと取り組むのにふさわしい精神力ができていくものなのである。

マルサス「人口論」第18章

  人間の能力は、つねに働かせないとすぐに気が抜けて眠り込んでしまう。人間の精神構造について経験がわれわれに教えてくれたことによれば、肉体的な欲求から生じる活動意欲を人類が失ったならば、われわれは刺激の不足により、野獣と同じレベルに下落してしまうだろう。暇が増えたらみんな哲学者と同じレベルに上昇すると考えるのは、とんでもないことだ。自然に恵まれ、生産物がいちばん豊かに自生する地方の住民が、いちばん鋭い知性を備えているとはいえない。必要は発明の母というが、まことに偉大な真理である。人間の精神の高貴な営みも、肉体的な欲求を満たす必要から始まっていることが多い。欠乏こそが、しばしば詩人の想像力に翼を与え、歴史家の文章に流麗さを与え、学者の研究に鋭さを与える。たしかに現在では、さまざまの知的刺激や社会的関心によって精神が改善された人も多く、そういう人は肉体的な刺激がなくても、精神をふたたび眠り込ませたりしないだろう。しかし、人類の大半が肉体的な刺激を失ったら、かならず人類の全体が致命的な休眠状態に入り、人類の将来における改善の芽もことごとく切り取られることになろう。

マルサス「人口論」第15章

  すでに明らかなように、人口の原理により、十分な供給をうける人数よりも供給を必要としている人数のほうがかならず多い。金持ちのお余りで養える人数が三人だとしても、それを欲しがる人数は四人だったりするのだ。この四人から三人を選ぶと、金持ちは選んだ三人にいわば大きな恩を授けたことになる。選ばれた三人もこの金持ちにに大きな義理を感じ、自分たちは金持ちに養ってもらっていると思うにちがいない。金持ちは自分の権力を感じ、貧乏人は自分の従属を感じるだろう。この二つの考え方がいずれも人間の心に悪い影響をおよぼすことはよく知られている。過重な労働がよくないことについては、私もゴドウィン氏とまったく同意見だが、しかし、それでも私が思うに、従属に比べればまだしも害は少なく、人の心を堕落させるおそれも少ない。また、われわれが学んだすべての歴史がしっかりと示してくれるように、不動の権力をゆだねられた人間の心は荒廃しやすいのである。

マルサス「人口論」第15章

  すでに明らかなように、ゴドウィン氏のシステムにしたがって形成される社会は、避けがたい人間の本性によって悪化し、資産家階級と労働者階級に分かれざるをえない。利己心ではなく博愛が社会を動かす原理になれば、その美しい名前から期待されるような幸せな結果は生じずに、いまは一部の人だけが感じている欠乏の重圧を社会全体が感じるようになる。人間の気高い才能が開花し、微妙で繊細な感受性がさらに向上するのは、じつは確固たる所有の制度のおかげであり、一見いかにも偏狭な利己心という原理のおかげなのである。じっさい、文明国が未開状態と区別されるのも、すべて所有の制度と利己心のおかげなのである。文明人は、現在の高みへ登ってくるときに用いたハシゴを、もはや不要として投げ捨ててよい段階に達しているといえるだろうか、あるいはやがて達するといえるだろうか。人間の性質は、けっしてそういえるほどには変化していない。

  いずれの社会も、未開の段階をこえて成長すると、かならず資産家階級と労働者階級が存在するようになる。そして、労働者階級の唯一の財産は労働であるから、この労働という財産の価値を減ずるようなことはすべて、この社会階級の所有物を減らすことにつながるのは明らかだ。貧乏人が自立して、自分で自分の身を支える唯一の方法は、自分の肉体の力を発揮することである。肉体の力だけが、生活必需品をえるために彼がさしだせる唯一の商品である。もしわれわれが、この商品の市場を縮小し、労働の需要を減らし、貧乏人がもっている唯一の財産の価値を低下させたら、それは彼にとって少しもありがたくないだろう。

マルサス「人口論」第7章

  飢饉は、どうやら自然が用いるもっとも恐ろしい最後の手段である。人口が増加する力は、土地が人間のために食糧を産み出す力よりも、はるかに大きい。したがって、人類は何らかの形で早死にすることになっている。まず、人間の悪徳が、人口減少に挑む有能な先鋒である。それは破壊の大軍の先頭にたち、しばしば単独でも大仕事をなしとげる。しかし。人間の悪徳がこの殲滅戦で成果をあげない場合には、流行病、伝染病、悪疫、コレラやペストがつぎつぎと押し寄せ、数千、数万の人命を掃討する。それでも成果が不完全な場合には、とても刃向かえない大飢饉が後陣からゆったりと現れる。そして、強力な一撃で、人口を世界の食糧と同じレベルに押し下げる。

  人類の歴史をじっくりと探究するなら、以上のことから、人類がかつて存在し、あるいはいま存在しているあらゆる国、あらゆる時代において、つぎの命題が成り立つことを認めないわけにはいくまい。

  すなわち、人口の増加は食糧によって必然的に制限される。

  食糧が増加すれば、人口は必ず増加する。

  そして、人口増加の大きな力を抑制し、じっさいの人口を食糧と同じレベルに保たせるのは、貧困と悪徳である。

 

斉藤悦則 訳    

マルサス「人口論」第7章

  人口を増やすべしという声は、そこらじゅうでよく聞かれる。一方、私は人類の増加傾向はきわめて大きいと述べてきた。もし、それが正しいとしたら、人口増加がしきりに求められているときに人口増加が起きないのは、不思議に見えるかもしれない。この現実の真の理由は、人口増大の要求が、その人口を養うのに必要な資源を準備せずになされていることにある。まず、耕作を促進して農業労働の需要を高めよ。それによって国の食糧生産を増やせ。そして、労働者の生活を改善せよ。そうすれば、人口増加がそれに比例して起こることには何の心配もいらない。これ以外の方法によって目的を達成しようとするのは、有害であり、残酷であり、暴虐である。したがって、いちおう自由がある国では成功しない。

  人口増加を無理に進めて、賃金を下げ、それによってまた陸海軍費を下げ、そして国外向け製品のコストを下げることは、国の支配階級と金持ちたちの利益であると思われる。ところが、この種の企ては慈善という欺瞞的な外見を装ったりするので、庶民は本気で歓迎しそうになる。まさにそういうときこそ、貧乏人の味方は、この種の企てのすべてを注意深く監視し、力のかぎりそれに抵抗すべきである。

 

斉藤悦則 訳   

マルサス「人口論」第5章

  人口の増加がそれに見合う食糧の増加を伴わずに進めば、各人の特許証の価値を減少させるのと、明らかに同じことになる。分配される食糧は必然的に量が少なくならざるをえず、したがって、一日の労働で買える食品の量も少なくなる。食品価格の高騰が起きる。それは、人口増加の速度が食糧の増加を上回るせいか、もしくは、社会における貨幣の配分の変化のせいである。昔から人のいる地方の食糧は、増加するとしても、ゆったりと規則的にしか増えず、突然の需要には応えることができない。一方、社会における貨幣の配分に変動が生じるのは稀なことではなく、それが食品価格にみられる連続的な変動をひきおこす原因になっていることは疑いない。

*特許証→貨幣のことを指している

 

斉藤悦則 訳  

マルサス「人口論」第1章

・・・人口が増える力は、土地が人間の食糧を生産する力よりもはるかに大きい。

  人口は、何の抑制もなければ、等比級数的に増加する。生活物資は等差級数的にしか増加しない。いささかでも数学の素養があればわかるはずだが、前者の増え方は後者に比べると相当なものである。

  人間が生きるためには食物が必要というのが自然の法則だから、人口と食糧は伸び率が異なっても結果的にはバランスがとれるにちがいない。

  それはどういうことかというと、生存の困難が人口の増加をたえず強力に抑制するのである。この困難は人類のある部分にふりかからざるをえず、そして必然的にそれは人数が多い部分にきびしくのしかかる。

 

斉藤悦則 訳   

ジョルジュ・バタイユ「純然たる幸福」

  人は、民衆文化という言葉を用いるときには、一般に最も広まっているが初歩的である文化、接近不可能とみなされている深さを排除している文化のことを考える。人は、文化を民衆の手に届く範囲に置こうとすると、すぐに文化に可能なものの限界を与えてしまい、不可能なものを追求する姿勢を文化から取り除いてしまう。そうするのは正しいとも言える。というのも一般に知的な文化は民衆にとってほとんど価値を持たないからだ(これは独学者がたくさんいるスペインではさほど明確に言えることではない)。が、実際のところは現代の文化は、諸階層に分裂し各階層が精神の面で無縁になっている社会の文化なのである。精神の面で、資本主義社会の下層階級は、もろもろの封建制社会の下層階級よりもずっと分裂している。現代社会の文化は、もっぱら中流ないし上流階級の所産である。そのうえこの文化は、混成の産物なのだ。この文化は、策略を弄して貴族階級の遺産を保存している。現代社会の諸欲求を直接的に表現している文化は、技術的、科学的であり、精神の次元では人道主義的であり実践的である。われわれの時代の真の文化的な富は、だからむしろ、社会の分裂と病いの表現になっているのである。一個の人間が産業の発展と無関係の生を持っているなどということは今日ではほとんどありえない。われわれは、ある時、産業の発展に縛られて、産業の発展を忠実に表現している。別な時にはわれわれは産業の発展を避けて逃避する。そして産業の発展によって、独善的な、あるいは病的な世界へと打ち捨てられてしまうのだ。

 

酒井健 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」結論

  そうはいっても、かつての農村社会がカロリーに飢えていたように、現代社会は富に飢え続けている。決してたどり着けない地平線に向かって歩き続ける人のように、現代社会は絶えずもっと裕福になりたいのだ。だが、いったんその裕福さを手に入れると、それが当たり前の状態になり、現代人はまたしてもそこから遠ざかろうとする。そうなるのを人間はわかっていない。なぜ人間は、常に自己を自分自身から無理やり引き離そうとするのだろうか。精神分析医、人類学者、経済学者は、この不可解な問いに迫ろうとし、さまざまな見解を提示した。いずれにせよ、重要な点は次のようにまとめられるだろう。人間の欲望は、その人が身を置く状況から多大な影響を受ける。こうして人間は、飽くなき無限の欲望を抱くことになる……。

 

林昌宏 訳  

ダニエル・コーエン「経済成長という呪い」第3部

  しかしながら、問題の核心は次の通りだ。人間は、自分たちが理解できない欲望の法則に支配され、自分たちの欲求がきわめて影響されやすいのを認めることができない。そして「将来の所得増」を常に願い、たとえ実際に増加しても決して満足しない。なぜなら、人々は自分たちの将来的な見通しを、自己の現在の願いが必ず変化することを考慮せずに、現在の願いを比較するからだ。自分たちが環境の影響によって変化するという考えは、誰も認めようとしない。人は、自分にとってよいことは何かを評価する権利を、今の自分にしか与えない。だからこそ、われわれの社会を機能させるために重要なのは、豊かさよりも経済成長なのだ。つまり、経済成長は、自己の精神的および社会的な境遇から這い上がれるという、儚いが常に更新される希望を全員に与えてくれるのだ。人々の不安を和らげるのはこの約束であって、約束が実現することではない。

 

林昌宏 訳