本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

G・ガルシア=マルケス 「コレラの時代の愛」

「今ここでお父さんが死んだら」と言った。「お前がわたしの年になる頃には、ほとんど覚えていないだろうな」
  父親は何気なくそう言ったのだが、涼しくて薄暗い事務室の中を死の天使が一瞬ふわりと漂い、羽根を残して窓から出て行った。しかし、少年はその羽根を眼にしなかった。それから二十年以上の年月がたち、フナベル・ウルビーノ博士はあの午後の父親の年齢に近づきつつあった。自分が父親にそっくりだということに気づいていたが、同時に父と同様いずれは死ぬ運命にあるのだというぞっとするような予感も感じていた。

 

木村榮一 訳  

G・ガルシア=マルケス 「コレラの時代の愛」

  夫に仕えることでたしかに幸せを手に入れることができたが、死なれてはじめて、自分というものがないことに気がついた。あの家は一夜にしてだだっ広くてさみしい他人の家に変わり、彼女はそこに住みついた亡霊のようにさまよい歩きながら、本当に死んでしまったのは亡くなった夫と一人残された自分のどちらだろうと考えてやり切れない気持ちになった。夫は大洋の真ん中に自分を一人残してあの世へ旅立っていった。そんな夫に対する恨みがましい思いを捨て去ることができなかった。

 

木村榮一 訳    

ウワディスワフ・シュピルマン 「ザ・ピアニスト」

ちょうどその時、一人の少年が首から甘い物の入った箱を吊り下げ、群衆の間をかき分けて我々のほうへ近づいてきた。彼がお金というものをどう考えていたかはわからないが、彼は甘い物を法外な値段で売っていた。我々は小銭の残りをかき集め、たった一個のクリームキャラメルを買った。父はそれを懐中ナイフで六つに分けた。これがみんなで一緒に食事をした最後となる。

 

佐藤泰一訳  

ウワディスワフ・シュピルマン 「ザ・ピアニスト」

最初に湧いてきた感情は死ねなかったという失望ではなく、生きていたことがわかった歓びである。どんな犠牲を払っても失せることのない、果てしなき動物的な生への欲望だった。燃えさかる建物の中で一晩生き延びたのだ。現在の関心事は何とか自分を救うことしかない。

 

佐藤泰一訳
*死ねなかった→自殺を試みた翌朝  

星野道夫 「ノーザンライツ」

「ドン・シェルドンは偉大なパイロットだったというだけでなく、山や空という無機質な世界をヒューマニズムの世界に変えていた。つまり彼がいることで、マッキンレー山もその空も生き生きと輝いていたのね」     

星野道夫 「ノーザンライツ」

  アラスカは一体誰の土地なのかと立ち上がった原住民土地請求運動は、これまであやふやのまま置き去りにされていたアラスカの土地所有の問題に対して、はっきりとした答を迫っていたのだ。その結果、アラスカは、アラスカ原住民、アラスカ州、そしてアメリカ合衆国の間で網の目のように複雑に分けられていった。壮大な原野の広がりは何も変わらないが、人々の心の中に、どうしても消し去ることができないラインが引かれていったのである。アラスカの歴史の中で、そのラインこそが、ゴールドラッシュよりも何よりも大きな出来事だった。国が選んだ三十二万四千平方キロに及ぶ土地は、新しい国立公園となってアラスカ中に現れ、父親から受け継いだセスの原野の家はいつの間にかコバック川国立公園のラインの中に入っていたのである。かつて、フロンティアへの夢を抱いてアラスカの原野に散らばった開拓者たちは、その見えないラインによって閉め出されようとしているのだった。
  そしてそのラインは、エスキモーやインディアンの人々の土地に対する観念さえ変えつつあった。太古の昔から、土地は個人が所有するものではなく、ただいつもそこに存在するものだった。カリブーの大群が地平線から現れ、また別の地平線に消えてゆくような、自由で、とらえどころのない広がりをもつ世界だった。しかし、アラスカ原住民土地請求権解決法により、人々の間でもそれぞれの土地所有権が決まり、心の中に見えない線が引かれつつあった。ドンは、ある村人が、自分の土地で誰かが冬用の焚き木を切っていったとこぼしていたという話を、信じられぬ思いでぼくに語ったことがあった。その土地とは、昔と何も変わらぬただ広大な原野なのである。ドンは、そんな時代の移り変わりを、ずっと生きてゆこうと決めたアンブラーの村でじっと見続けているような気がした。    

星野道夫 「ノーザンライツ」

  混沌とした時代の中で、人間が抱えるさまざまな問題をつきつめてゆくと、私たちはある無力感におそわれる。それは正しいひとつの答が見つからないからである。が、こうも思うのだ。正しい答など初めから存在しないのだと……。そう考えると少しホッとする。正しい答をださなくてもよいというのは、なぜかホッとするものだ。しかし、正しい答は見つからなくとも、その時代、時代で、より良い方向を模索してゆく責任はあるのだ。時代の渦にまきこまれながらも、何とか舵をとりながら進んでゆこうとするグッチンインディアンの人々の夢に、ぼくは強くそのことを感じていた。   

宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」   

宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」

(どうしてぼくはこんなにかなしいのだろう。ぼくはもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこに岸のずうっと向こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。ぼくはあれをよく見てこころもちをしずめるんだ。)
  ジョバンニはほてって痛いあたまを両手で押えるようにしてそっちの方を見ました。
(ああほんとうにどこまでもどこまでもぼくといっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうにはなしているし、ぼくはほんとうにつらいなあ。)
  ジョバンニの目はまた涙でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやりと白く見えるだけでした。

 

 

サン=テグジュペリ 「星の王子さま」

おとなというものは、数字が好きです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。〈どんな声の人?〉とか、〈どんな遊びがすき?〉とか、〈チョウの採集をする人?〉とかいうようなことは、てんできかずに、〈その人、いくつ?〉とか、〈きょうだいは、なん人いますか〉とか、〈目方はどのくらい?〉とか、〈おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか〉とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。
  おとなの人たちに〈桃色のレンガでできていて、窓にジェラニウムの鉢がおいてあって、屋根の上にハトのいる、きれいな家を見たよ……〉といったところで、どうもピンとこないでしょう。おとなたちには〈十万フランの家を見た〉といわなくてはいけないのです。すると、おとなたちは、とんきょうな声をだして、〈なんてりっぱな家だろう〉というのです。

 

内藤濯 訳    

サン=テグジュペリ 「星の王子さま」

 「じぶんのものにしてしまったことでなけりゃ、なんにもわかりゃしないよ。人間ってやつぁ、いまじゃ、もう、なにもわかるひまがないんだ。あきんどの店で、できあいの品物を買ってるんだがね。友だちを売りものにしているあきんどなんて、ありゃしないんだから、人間のやつ、いまじゃ、友だちなんか持ってやしないんだ。あんたが友だちがほしいんなら、おれと仲よくするんだな」
 「でも、どうしたらいいの?」と、王子さまがいいました。
  キツネが答えました。
 「しんぼうが大事だよ。最初は、おれからすこしはなれて、こんなふうに、草の中にすわるんだ。おれは、あんたをちょいちょい横目でみる。あんたは、なんにもいわない。それも、ことばってやつが、勘ちがいのもとだからだよ。一日一日とたってゆくうちにゃ、あんたは、だんだん近いところへきて、すわれるようになるんだ……」

 

内藤濯 訳       

サン=テグジュペリ 「星の王子さま」

  きみの住んでるとこの人たちったら、おなじ一つの庭で、バラの花を五千も作ってるけど、……じぶんたちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ」と、王子さまがいいました。
 「うん、わからずにいる……」と、ぼくは答えました。
 「だけど、さがしてるものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ……」

 

内藤濯 訳      

星野道夫 「長い旅の途上」

  五年前、アラスカで死んだ友人のカメラマンの灰を、一本のトウヒの木の下に仲間で埋めたことがある。そこはマッキンレー山に近い、イグルーバレイと呼ばれる谷だった。灰を埋めた小さな丘から、トウヒの森が見渡せた。彼が一番好きな場所だった。
  この世に生きるすべてのものは、いつか土に帰り、また旅が始まる。有機物と無機物、生きるものと死すものとの境は、一体どこにあるのだろう。
  いつの日か自分の肉体が滅びた時、私もまた、好きだった場所で土に帰りたいと思う。ツンドラの植物にわずかな養分を与え、極北の小さな花を咲かせ、毎年春になれば、カリブーの足音が遠い彼方から聞こえてくる……そんなことを、私は時々考えることがある。    

星野道夫 「長い旅の途上」

  私たちは、二つの時間を持って生きている。カレンダーや時計の針に刻まれる慌ただしい日常と、もう一つは漠然とした生命の時間である。すべてのものに、平等に同じ時間が流れていること……その不思議さが、私たちにもう一つの時間を気付かせ、日々の暮らしにはるかな視点を与えてくれるような気がする。      

星野道夫 「長い旅の途上」

  私たちが生きていくということは、だれを犠牲にして自分が生き延びるか、という日々の選択である。生命体の本質とは他者を殺して食べることにあるからだ。それは近代社会が忘れていった血のにおいであり、悲しみという言葉に置き換えてもいい。その悲しみをストレートに受け止めなければならないのが狩猟民なのだ。人々は自らが殺した生き物たちの霊を慰め、再び戻ってきて犠牲になってくれることを祈る。
  クジラと共に生き、クジラと共に大地へ帰ってゆく人々。ベーリング海から吹き寄せる霧が大地から突き出たクジラの骨を優しくなでてゆく。美しい墓の周りに咲き始めた小さな極北の花々をながめていると、有機物と無機物、いや生と死の境さえぼんやりとしてきて、あらゆるものが生まれ変わりながら終わりのない旅をしているような気がしてくる。