本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

中島義道「ひとを〈嫌う〉ということ」

  私が——不遜ながら——自己変革を要求したい人は、こういう善良かつ盲目な人に対してです。こんなに一生懸命にしているのに、報われない。あたりまえです。人生とはその労力に比例して報われないことが自然だからです。こんなに訴えているのにわかってもらえない。あたりまえです。人生とはどんなに訴えてもわかってもらえないのが自然だからです。

  善良な人は、「よいこと」を自然だと思い込んでいる。しかし、これは単なる理念なのです。要請なのです。むしろ、自然が逆であるからこそ、われわれはよくありたいと望む。嫌い合うことは自然なのです。だからこそ、われわれは嫌い合いたくないと望む。両者をはっきりと区別しなければなりません。

  人間同士が嫌い合うことを素直に認めることから、むしろ他人に対する温かい寛大な態度が生まれてくる。他人を嫌うことを恐れている人、他人から嫌われることを恐れている人は、自分にも他人にも過剰な期待をしている。それは、たいへん維持するのが難しい期待であり、ささいな振動によってガラガラ崩れてしまいます。ですから、こういう人はかえって人間不信に陥ってしまうのです。

 逆に、他人を嫌いになるのはあたりまえ、他人から嫌われるのはあたりまえと居直っていますと、意外に嫌いではない人が出てきて、あるいは意外に意外に嫌われることがないことがわかって感動する。「ほのかな嫌い」は、それを発散させることができないことにより、怨念へ、怨根へ、憎悪へと移行してゆく。このメカニズムを知っていますので、私はなるべく軽いうちに「嫌い」を公共空間に発散させることにしています。

  なぜ、われわれは「嫌い」を発散させないのか?それは、何といっても自分を守るためです。他人に嫌われたくないためです。ですから、それをやめてしまえば、つまり他人から少しでも嫌われたくないという願望は維持するのが土台無理なんだと悟ってしまえば、嫌われてもその辛さが自分を豊かにすると考えてしまえば、そんなに難しくはない。