本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

スタンダール「赤と黒」

  自然法などありはしない。そんな言葉は、このあいだおれを痛めつけた次席検事ぐらいが口にしそうな時代がかった世迷い言だ。あいつの祖先は、ルイ十四世時代の没収財産のおかげで金持ちになったんではないか。法というものは、かくかくのことをしてはならぬと、刑罰によって禁止する法規があって、はじめて成立するものだ。法規以前にみられる自然なものといえば、ライオンの力とか、あるいは腹をへらしたり、寒さにふるえている者の欲求とか、要するに一言でいえば、欲求だけなのだ……そうだ、世間の尊敬を集めているひとたちだって、運よく現行犯で逮捕されずにすんだ悪党にしかすぎない。社会がおれに向けて送った告訴者も、破廉恥な行為で金持ちになったのだ……おれは殺人罪を犯した。罰せられるのは当たり前だ。だが、この行ないひとつを別にすれば、おれに有罪を宣告したあのヴァルノのほうが、社会にとっては百倍も有害な奴なのだ》

 

大岡昇平・古屋健三 訳