本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

角幡唯介「漂流」第8章

  陸の人間は船乗りという人種全般にたいして、勝手気儘に大海原を行き来する自由な存在という固定観念をもちがちだが、船に乗ってみて、私は、それが物事の一面しか見ていない不十分な見方であることを痛感していた。たしかに彼らは自由なのかもしれない。しかし自由な存在である前に、まず船という閉鎖された空間に隔離された孤独で動きの制約された人間としてこの世界に存在している。それはどういうことかと言うと、彼らは単純に〈海にとりかこまれたせまい船〉という身体的にきわめて限定された空間のなかで生きているということである。彼らは基本的に船から外に出ることはできず、そういう物理的な制約が、まず彼らの性質を規定している。つまり彼らは望むと望まざるとにかかわらず、船ごとに分割されたバラバラな個人として大海原に存在せざるをえないのである。

  そのように分割されて個人として存在しているという前提のうえで、マグロ漁師は船乗りとしての主体性を確保している。彼らは船長や漁労長として海の状況や天候、あるいは他船からの無線情報、燃料や餌の残量、魚倉の空き容量などをもとに判断をくだし、操業海域や運航計画などについて決定する。そしてこの判断をあやまった場合、遭難という自分の生命に直結しかねない深刻な事態をまねくおそれがある。自分で考え、行動し、その結果が自分の運命に直接はねかえってくる。海上の船という隔絶した環境で命にかかわる判断と決断を常時、連続的にくりかえし、その判断にたいする責任を最終的には自分の命であがなうことで、マグロ漁師たちは一人の人間として海という自然、すなわちみずからを存在させている世界の基盤そのものに主体的、本質的に関与しているのである。船乗りが自由だというのは、このように自分の命を自分で管理するという責任関係を、完全に独立した個人として世界と切りむすびことができているからである。