本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

角幡唯介「漂流」第4章

  個人的な話になるが、私が北極やヒマラヤの辺境のようなところに冒険旅行をくりかえすのは、日常生活のなかで死を感じられなくなったからだと思っている。消費文化の価値観にどっぷりと浸かった現代の都市生活においては生や死のいっさいは漂白され、われわれの目には見えなくされている。生や死を想起させる風習、肉や血などの生々しい物体、生きていること自体に由来する汚らしくて猥雑な空間などはすべて忌避され、隠蔽され、私たちはアルファベットの横文字がならんだ、洗剤のデオドラントが漂ってきそうな清潔で小ギレイな居住空間で日常をいとなんでいる。生は肉体という物理的な有機物によって生存期間が限定されており、死が不可避であるにもかかわらず、その死を具体的に想像できない空間のなかに私たちの生はとじこめられているのである。

  本来の生というのは死を感じることができなければ享受することができないものである。科学技術や消費生活が進展することで都市における生は便利に、安逸になり、快楽指数も上昇したが、そのことによって私たちが知ったことは、日常が便利で快適になることと、自分の生が深く濃密になることとはまったく関係がないということだった。現代の都市生活者は死が見えにくくなり、死を経験することができなくなることで、死を想像することもできなくなった。そしてその結果、生を喪失してもいる。私が冒険旅行をするのは、ただたんに死の想像できない都市をはなれて、時々本格的に死と対峙しないと自分の生の輪郭がうしなわれてしまうような気がしてならないからだ。だから私は日常生活のなかで死をとりこむことのできていた頃の人々の暮らしに単純に敬意をおぼえるし、自分の冒険旅行も所詮は日常に死があった頃の生活の追体験にすぎないとも思っている。