本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

アントニオ・タブッキ「島とクジラと女をめぐる断片」

  手のつけられない凪で、灼熱の太陽が照りつけ、大洋にぼってりとした暑気がのしかかるといった、そんな日々こそ、クジラたちが、陸にいた遠い祖先の記憶に戻ることを許される稀有な時間なのではないかと、僕は想像する。そのためには、あまりにも密度の濃い、完璧な自己集中が要求されるので、彼らは死んだように深い眠りに落ちるのではないか。てかてかと光る、大樹のような盲目の胴体を海に浮かべて、彼らは、夢見るように、はるか彼方の過去に、まだ彼らの鰭が、手まねきしたり、挨拶したり、愛撫したりすることができる乾いた四肢であったころ、彼らが高く繁った花々や草を縫って、まだマグマの基本的要素の構成を検討中で、仮説でしかなかった大地を駆け抜けていた、いまは遠いあのころを思い出しているのではないか。

 

須賀敦子 訳