本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「人間の絆」

  人生の旅人が、現実をただ現実として、そのまま受け容れるようになるまでには、いかに広い不毛の国、嶮しい国を、越えなければならないか、それは、まだ彼には、わかっていなかった。青春を幸福だなどとは、一つの迷妄、それもすでに青春を失ってしまった人間の迷妄なのだ。しかも青年たちの頭は、なまじ注入された、誤った理想で、一ぱいなために、自分たちを、不幸と観じ、実際現実と接触するごとに、敗れ、そして傷つくのだ。いわば、陰謀の犠牲のようなものだった。というのは、彼等の読書、それは、選択の必要から勢いおのずと理想的になるのであり、また年長者たちの話、これはまた、徒らに、忘却というバラ色の靄を通して、過去を見ているのだが、その両者が相俟って彼等をただ一途に、非現実的な人生へと用意するのである。

 

中野好夫 訳