本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「人間の絆」

「一方には、社会があり、他方には、個人がある。しかもどちらもが、それぞれ自己存続をもとめて闘っている有機体なのだ。力対力。そして僕は、ただ一人立って、社会というものを受け容れなければならない。もっとも、いやだというわけではない。つまり、社会という奴は、僕が税金を払う代償として、ちゃんと僕という弱い人間を、僕より強いものの専横からまもってくれる。だが、僕がその掟にしたがうのは、そうするよりほか仕方がないから従うのであって、なにも法の正しさを承認したからでは、決してない。正しいなどとは毫も思ってない。ただ力を認めているだけさ。だから、保護してくれているその警官諸君の給料を僕等が払い、またもし徴兵制のある国に住んでいるとすればだね、僕等の家と土地とを、侵入者から守ってくれる軍隊に御奉公すれば、それでもう僕は、社会とは立派に五分五分だと思っているのだ。それ以外は、僕は、向うが力でくるのなら、こっちは狡さで対抗してやる。社会は社会で、自己保存のために、いろんな法をつくっている。そして、もしそれを破れば、僕は監禁か、でなければ死刑だ。つまり、社会は、それだけの力を持っているから、それがまた正義ということにもなる。で、かりに僕が法を破るとする、そりゃ、それに対する国家の報復を、僕は甘んじて受けはするよ。だが、それを刑罰だなどとは、決して考えやしないし、またなにか悪いことをしたために、有罪になったのだなどとも、断じて感じないねえ。社会というやつはね、やれ、名誉だの、やれ、富だの、やれ、世間のよい評判などというものを持ち出してきては、僕等の奉仕を誘惑するんだよ。だが、僕にとっては世間の評判なんて、風馬牛。名誉も軽蔑、金なんぞは、なくったって、いくらでもやっていける。」

 

中野好夫 訳