本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「人間の絆」

「画家ってものはね、その眼で見る物から、一種独特の感動を受ける。すると、それを、なんとかして表現しなければいられないのだ。しかも彼は、なぜだかはわからんが、ただ線と色とによってしか、その感情を表現することができないのだ。音楽家も、同じだ。たとえば、一行か二行読む、とある特定の音の結合が、自らにして、彼の頭に浮かんで来る。なぜしかじかの言葉がしかじかの音を、彼のうちに呼び起こすか、そんなことは、彼は知らない。ただ、そうなるというだけなんだ。そうだ、批評なんてものが、いかに無意味か、もう一つ理由をいってやろう。本当に偉大な画家ってものはね、彼が見るままの自然を、世間に向って、押しつけるものなんだよ。ところが、次ぎの世代になると、別の画家は、また別な風に、世界を見る。ところが一般世間って奴は、彼によって、彼を判断するんじゃなくて、彼の先行者によって、彼を判断するのだ。だから、たとえば僕等の親たちに対して、バルビゾン派が、ある種の木立の見方を教えた。ところが、モネが出て、まるで違った描き方をすると、人々はいうんだ、木は、そんなもんじゃないってね。そもそも木なんてものは、画家が、それをどう見るか、それ一つで、決まるもんだなんてことは、全然気がつかないのだ。僕らはね、内部から、外に向って、物を描く——たまたま僕らの眼を、世間に押しつけることができれば、世間は、大画家というし、出来なければ、頭から無視してしまう。だが、僕らは、いつも同じなんだ。偉大だろうが、つまらなかろうが、そんなことは、僕等にとって、なんの意味もない。僕等が制作する、その後に起こることなどは、一切無用。僕等は、描いているその時に、制作からえられる一切のものは、すでに吸い取っているのだ。」

 

中野好夫 訳