本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「人間の絆」

社会の利益になるような行為を、社会は、美徳と呼び、そうでない行為を悪徳と呼ぶ。善といい、悪というが、畢竟、それ以上の何物でもないのだ。罪などという観念は、いやしくも自由な人間なら、それから解放されなければならない先入見なのだ。個人との闘いにおいて、社会は、三つの武器を、もっている、——法律と、世論と、良心とが、それだ。最初の二つは、術策でもって、立ち向かうことができる。術策だけが、強者に立ち向かう、弱者の武器なのだ。罪というのは、見つかるから罪なのだという通説は、なかなかうまいことをいっている。だが、良心というやつは、いわば城中の裏切者だ。各人の心の中で、社会のために闘い、個人をして、われから進んで、社会の犠牲たらしめ、敵の勝利を促進させるのだ。国家と、自覚した個人、この両者が、仲よく手を握るということは、明らかに、不可能であり、前者は、個人を、ただ己れの目的に利用するだけで、もし邪魔になれば、踏みにじり、もし忠実に仕えれば、勲章だの、年金だの、名誉だのという、恩賞を与えるのだ。

 

中野好夫 訳