本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「人間の絆」

  彼を焼きつくす感情に、必ずしもフィリップは、喜んで溺れているのではなかった。人間万事、それはすべて、たまゆらのものであり、したがって、いつかは消えてなくなるものだとは、知っていた。その日を、彼は、どんなに首を長くして、待ち望んでいたことだろう。恋とは、彼の心臓の中の、いわば寄生虫みたいなものだった。彼の生血をもって、この憎むべき生物を、養っているのだ。彼の全存在を、すっかり吸いつくしてしまって、彼は、そのほかの何物にも興味が持てないのだった。前には、あのセント・ジェイムズ公園の美しさが、常に喜びであり、よく彼は、ベンチに坐って、影絵のように、空にひろがる木々の梢を眺めたものだった。まるで日本の版画のようだった。それからまた、舟着場や、川船の浮かぶあの美しいテムズ河の河景色に、それこそ掬みつくせない魔術を感じたこともある。四時に変るロンドンの空は、彼の心一ぱいに、楽しい空想を齎してくれた。だが、それが今は、彼にとっては、美は全くの無意味だった。ミルドレッドと離れていると、ただ退屈で、ソワソワするばかりだった。時には、絵でも見て、悲しみを紛らそうと思うこともあるが、たとえば国立美術館に入ってみたところで、ただ観光客のように、素通りするだけで、一枚の絵として、感動を与えてくれるものはなかった。かつては愛した、すべてそうしたものを、果してまたいつか、愛する日が来るのだろうか、と彼は疑った。前には、読書が、なによりの楽しみだった。だが、今では、一切書物も無意味。暇な時間は、病院のクラブの喫煙室で、ただわけもなく、夥しい雑誌のページをめくりながら、過した。この恋、それは拷問だった。今の彼自身の隷属状態を、彼は、たまらない気持で嫌悪した。彼は、囚人だった。そして、彼は、自由を望んだ。

 

中野好夫 訳