本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サマセット・モーム「人間の絆」

彼は、ヘイウォードのこと、そしてまた二人が、はじめて相会った時の、彼に対する熱烈な賛嘆を思い出した。次ぎには、それが幻滅に変り、無関心に変り、ついには、単なる習慣と昔の思い出以外、なに一つ二人を結ぶもののなくなってしまった、あの長い推移のことを思った。考えて見ると、これもまた、この人生の不思議の一つだろう。——ある人間と、何ヶ月間も、文字通り顔を合せ、一度はほとんど彼なしには、人生を考えられないまでに、親しくなったものが、やがては、はっきり別れてしまっても、一向なんの痛痒も感じないという。つい昨日までは、なくてかなわなかった友が、今日はまるで要らないものになってしまうという。生活は、相変わらず同じようにつづき、しかも彼のいないのを、淋しいとさえ思わないのである。

 

中野好夫 訳