本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

オイゲン・ヘリゲル「弓と禅」

  この状態、その中ではもはや何ら特定のことが考えられず、計画されず、希求、願望、期待されない状態、どんな特殊の方向に向かっても目指して行かないものでありながら、しかも確固不偏の力の充実のゆえに可能なものに対しても、あるいはまた不可能なものに対しても巧みに対処する術をわきまえている状態——この状態こそ、真底からして無心無我なのであって、師範によって本来的に“精神的”と呼ばれたものであった。それは実際精神の目覚めた状態に満ち満ちているゆえに、“正しい精神の現在”ともいわれるのである。その意味は、精神がどこにも、どんな特殊の場所にも執着しないがゆえに、どこにでも現在するというのである。のみならず精神はいつまでも現在的であることができる。というのは精神が、これまたはあれという特殊のものを目指したとしても、そのことに思慮を用いて執着することなく、したがって自己の根源的自在を失うようなことはないからである。それは池を満たしながら絶えず流れ出ようとする水にも比べられるのであって、自由であるゆえにその都度、尽きない力で働くことができ、また空虚であるゆえにあらゆるものに自己を開くことができるのである。この状態はまさしく本来的に一つの根源的状態であって、その象徴である空円は、その中に立つ人を黙らせてはおかないのである。

 

稲富栄次郎・上田武 訳