本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ラッセル「幸福論」第15章

深く愛していた人の死のような、慰めようのない悲しみについても、同じような考えがあてはまる。そういうときには、だれにせよ、悲しみにうち沈んだところで何の足しにもならない。悲しみは避けがたいものであり、覚悟してかかるほかはない。しかし、悲しみを最小にするためになすべきことは、何でもしなければならない。ある人びとがするように、不幸からみじめさの最後の一滴まで飲みほそうとするのは、単なる感傷でしかない。悲しみにうちひしがれる人がいることは、もちろん、私も否定しない。しかし、人間だれしもこうした運命を避けるために全力を尽くすべきであり、どんなつまらぬことでもいい、何か気晴らしを捜すべきである、と私は言いたい。ただし、その気晴らしは、それ自体有害なものであったり、人を堕落させるものであってはならない。私が有害で、人を堕落させると思っている気晴らしの中には、泥酔とか麻薬とかが含まれている。両者の目的は、思考を——少なくとも当分は——麻痺させることにあるのだ。正しい方法は、思考を麻痺させることでなく、思考を新しいチャンネルに切り替えること、あるいは、少なくとも現在の不幸から隔ったチャンネルに切り替えることである。もしも、これまでの生活がごく少数の興味に集中されていて、しかも、これらの少数の興味がいまや悲しみに満たされてしまったならば、思考の切り替えはむずかしい。不幸に見舞われたときによく耐えるためには、幸福なときに、ある程度広い興味を養っておくのが賢明である。そうすれば、現在を耐えがたくしているのとは別の連想や感情を思いつかせてくれる静かな場所が、精神のために用意されるだろう。
  十分な活力と熱意のある人は、不幸に見舞われるごとに、人生と世界に対する新しい興味を見いだすことによって、あらゆる不幸を乗り越えていくだろう。その興味は、一つの不幸のために致命的になるほど制限されることは決してないのだ。一つの不幸、いや数度の不幸によってさえ敗北してしまうのは感受性に富むあかしとして賞賛されるべきことではなくて、活力の無さとして遺憾されるべきことである。私たちの感情は、すべて死の手にゆだねられているのであって、死は、いつなんどき私たちの愛する人を打ち倒すかもしれない。だから、人生の意義と目的をそっくり偶然の手にゆだねるといった、そんな狭い激しさを私たちの人生に与えるべきではない。

 

安藤貞雄 訳