本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  遊牧の民であるヘブライ人は、その特徴の多くをアブラハムから受け継いでいる。アブラハムカルデアの都市ウルを離れた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と主から命じられたためだ。移動生活を好み所有に縛られないことは、ヘブライ人の重要な特徴である。このような生活様式が経済に与える影響は、当然ながらきわめて大きい。第一に、このような社会では人間関係が密になり、あきらかに相互依存性が高まる。第二に、ひんぱんに移動するため、運べる以上のものは所有できない。彼らの物質的財産は、全部合わせてもたいした重さにならなかった。物理的な重量は、人をその土地に縛る。
  さらにヘブライ人は、所有主と所有物の間には目に見えない双方向性があることに気づいていた。人は物質的な財産を所有するが、しかしある程度まで、所有物は持ち主を所有し、その物に縛りつける。ひとたびある種の物質的な快適さに慣れてしまうと、それに背を向け、物を持たずに自由に生きるのはむずかしい。シナイ砂漠での物語では、快適と自由の二律背反が描かれている。ヘブライ人は、エジプトでの隷属生活から解放されてしばらくすると、モーセに不平を言い始める。
  モーセがじつに偉大だったことの一つは、不平を言う人々に対して、奴隷になって「ただで」食べ物をもらうよりも自由で飢えているほうがよいのだ、ときっぱり言い切ったことである。

 

村井章子 訳