本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第4章

  実際、お金で買えないもの、たとえば友情には、売買や物々交換をする手だてはいっさいない。親友や心の平穏といったものを買うことはできない。だが、それに近いように見える代用品であれば、買うことが可能だ。あなたは友人のためにレストランのディナーを買うことはできるが、それで親友を買えるかと言えば、答はノーである。あるいは平和に暮らそうと山に別荘を買うことは可能だが、平和な暮らしそのものを買うことはできない。広告は、まさにこの原理で機能している。広告は、 まずあなたに買えないものを示す(安眠、しあわせな家族の朝食、美など)。そして、買うことのできる代用品(高価なベッド、朝食用シリアル、山小屋、シャンプー等々)を提案するのである。すると消費者は、それが幻想であって、広告を演じているのは俳優なのだと承知していても、高価なベッドや枕(安眠できないのは安物を使っているせいだ)、新製品のヨーグルトとシリアル(しあわせな朝食にはそれが必要だ)、シャンプー(広告中のモデルは一度もそれを使ったことはないにちがいないが)が欲しくなり始める。
  チェコの哲学者ズデニェク・ノイバウエルが「価格は神聖ではない」と言ったのは正しい。ドイツの社会学ゲオルク・ジンメルも、お金は「通俗的だ」と述べたとき、同じことを考えていたのだろう。「ものは、そのものの存在意義よりも低い値段を付けられる。……貨幣は、いかなるものについても等しい価値を持つがゆえに通俗的だ。差異を認められるのは、唯一無二の価値を持つものだけである。いかなるものについても等しい価値を持つとは、最も価値が低いものについても等しい価値を持つということだ。この理由から、貨幣は最も価値の高いものを最も低い水準まで貶める。これが、貨幣による等価プロセスにつきまとう悲劇だ。このプロセスは、最も価値の低い要素と直結している」。大切なものにこのプロセスが適用されれば、「儲けようとしている」とか「お金のためにやっている」と非難され、侮辱の材料にもなる。

 

村井章子 訳