本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第8章

  視点次第で善にも悪にも見えるサイクルを、われわれは起動させた。アプリケーションやアルゴリズムへの依存を強めるにつれ、それらの補助なしに行動することはますますできなくなっている——われわれはスキルの抜け落ちだけでなく、注意力の抜け落ちも経験しつつある。それでさらにソフトウェアは必要不可欠なものになる。オートメーションがオートメーションを生むのだ。誰もがスクリーンを通じて生活していこうとするのだから、当然社会はみずからのルーティンや手続き(プロシージャ)を、コンピュータのルーティンやプロシージャに適合させていく。ソフトウェアが達成できないこと——計算で処理できず、したがってオートメーションに抵抗するもの——は、不必要なものに見えはじめる。

 

  われわれが慣れていけば、テクノロジーはわれわれに対してさらに力を行使するようになるのであり、その力が弱まることはない。われわれは、テクノロジーが生活に課している拘束に気づいていないかもしれないが、拘束は続いている。フランスの社会学者のブルーノ・ラトゥールが指摘するように、身近なテクノロジーの不可視性は「ある種の視覚的錯覚」である。テクノロジーを受け入れるためにわれわれが自分たちを作り変えているという事実を、それは覆い隠している。当初はわれわれ自身の特定の意図を達成するために使われていたツールが、そのツールの意図を、あるいはその製造主の意図を押しつけてくるようになる。ラトゥールは次のように書いている。「いかに単純なことであろうと、ある技術の使用がどれだけ最初の意図を置き換え、書き換え、変更し、ねじ曲げているかに気づかないとしたら、それは単純に、われわれが手段を変えることで目的を変えてしまったからであり、意思が滑り落ちてしまったせいで、初めに臨んだものとかけ離れたものを願うようになったからだ」。

 

篠儀直子 訳