本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

フランコ・カッサーノ 「南の思想」第3章

世界大のメディアの作用はある意味で貨幣の作用と似ている。もはや到達できない場所はなく、われわれはみな不可避的に、メディアを通じてのさまざまなコミュニケーション関係によって築かれた世界共同体の構成員になっている。貨幣と商業がローカルな自給自足の消費に基づいた共同体からわれわれを根こぎにしたのと同様に、メディアもわれわれをローカルな利害に基づいた地域主義から根こぎにする。われわれは、非常に遠くにいる人や出来事に近くなると同時に、ごく身近な人や出来事からは遠くなってしまった。この場合にも、場所なき帰属のおかげで昔からの帰属の絆が緩められてしまっている。


市場は人から根を失わせ(ポランニー『大転換』)、競争の危険きわまりない宇宙に投げ込む。われわれは競争という普遍宗教のなかに投げ入れられ、それぞれの文化、習慣、悪徳から根を抜かれ、スターティングブロックに足を乗せ、新しい出発へのコールを待つ。経済学者は、ホモ・クーレンス(走り続ける人間)の理論家であり、健康のためにわれわれは生きている間中、一日中走りつづけなければならないと繰り返す学識に富んだ医師である。われわれの健康は走った分によるのだから、街は暇なときにも走っていてそのことに喜びを感じている悲痛な人々で満ちている。息切れして顔を真っ赤にした人々の宗教、高層ビルの陰で汗をかきながら唱えるこのような朝夕の祈りは、われわれの精神のすべての毛穴をいっぱいにし、別の生活形態もあることさえ頭に思い浮かばなくしてしまう。


「根を失う」という表現(われわれはそれをシモーヌ・ヴェイユ「根を持つこと」に借りている)は、ある一つの現象の恐ろしい側面を表している。その現象は別の視点から見ると、ヨーロッパと西洋の大いなる自慢の種である。自由、がそれである。われわれの文化を貫いている境界への内在的緊張を生みだすのが、この「根を失うこと」である。すべての境界はわれわれを束縛し、すべての根はわれわれを繋ぎ止め、人間としての自由を窒息させる。知的・空間的移動の権利、あたかもわれわれがそれに所属しているかのようにわれわれを繋ぎ止めようとする絆から自由になる可能性、人類に属すること以外のいかなる属性も考慮することなく誰にでもホスピタリティーと尊厳を与えること、この個人の神聖-超越性は、それを産みだした西洋にとってはあまりにも偉大で重要なことなので、その別の側面をなかなか直視することができないのだ。


自由と「根を失うこと」は、自分たちが人間を束縛から解放した同じ一つの衝動から生まれた兄弟であることを発見する。


ファビオ・ランベッリ 訳