本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

フランコ・カッサーノ 「南の思想」第5章

  一人の子どもがお金がなくとも愉しむことのできる富があることを知り、また美が報酬を求めることなくどの街角でも彼を待っているとすれば、その子は永遠に、私有財産を蓄積する閉所恐怖症の世界からは自由になる。

 

「幸福な貧困」とはたぶんただの牧歌に過ぎず、陸が海に出会う、南でも特別な地域でしか体験できないものに過ぎなかったのかもしれない。だが、たしかにある視点から見た場合、その収入の目覚ましい成長にもかかわらず、今日、南はより貧しくなったと断言することもできるのだ。たしかに、かつて南には恐ろしいまでの不正義が、そして南の本来的な性質や宗教に由来するのだと永らく信じ込ませられてきた厚かましい悪弊が、それこそいやというほど存在した。だから他人から押しつけられた貧困にノスタルジーを感じることなどはできない。多くの不正、排除や貧困の現象は、今日、なくなったのではなく、たんに変質しただけである。貧困からあわてふためいた逃走は、「財産の過剰が始まったとたんに消えてしまう自由」もまた、同時に奪ってしまうのだ。
  これは、清貧思想ではない。むしろ、自由の新しい形態がますます大金を要求するようになり、かつてはみなのものであった太陽と海が売春のようなものになり、金を払える者以外はアクセスできないものになるという意識である。海と太陽を小さな区画に区切って売り出すことによって金は増えた。だが、同時にこの自由、自由の根源にあった共通の母、南の人々の幼年時代の思い出の中に残された、みなのものである光に照らされた場所での幸福なそぞろ歩きは消滅した。

 

ファビオ・ランベッリ 訳