本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

L・ヴァン・デル・ポスト 「影の獄にて」影さす牢格子

どことなく類人猿を思わせる、先史時代物のハラの顔は、ロレンスがかつてみたことのない美しいものに変わっていた。その顔、その古代の瞳に宿る表情。あまりにも心を動かされた彼は、思わずもう一度、独房のなかに戻ってゆきたい衝動にかられた。実際、彼は行こうとしかけたのだが、なにかが、彼を押しとどめてゆかせなかった。深い、本能的な、自然のままの、衝動的な彼の半身は行こうとした。行ってハラをしっかりと腕に抱き、額に別れのくちづけをし、そして、こう言いたかった。「外の大きな世界の、がんこな昔ながらの悪行をやめさしたり、なくさせたりすることは、ぼくら二人ではできないだろう。だが、君とぼくの間には、悪は訪れることがあるまい。これからゆく未知の国を歩む君にも、不完全な悩みの地平をあいかわらず歩むぼくにも。二人のあいだでは、いっさいの個人の、わたくしの悪も帳消しにしようではないか。個人や、わたくしのいきがかりは忘れて、動も反動も起こらないようにしよう。こうして、現代に共通の無理解と誤解、憎悪と復讐が、これ以上広まらないようにしようではないか」と。しかし、その言葉はとうとう口からは出なかった。扉のわきに立つ、士官としての彼の意識した半身は、疑ぐりぶかい、油断ない歩哨につき添われたまま、扉の敷居に立ちつくして、ついに彼をハラのところに走らせなかったのだ。こうして、ハラとその黄金の微笑には、これを最後と、扉が閉ざされてしまった。

だが、街に帰ってゆく道すがら、あのハラの最後の表情が、ロレンスの脇を、ずっと寄り添うように付いていた。なぜ戻ってやらなかったのかと、彼は、深い後悔の気持ちでいっぱいになっていた。彼をゆかせなかった、お上品ぶった半身は、いったい何なのだろう? あのとき、彼が戻ってやっていたら、いまごろ彼は、歴史の全行程を変えることができたような気持ちを味わえていたかもしれない。なぜなら、大きなことも、もともと、騒然たる個人の心のなかに生じた小さい変化のささやかな種子から始まるものではなかったか。わずかひとつの、孤独な、無経験な心が、まず第一に変わり、それから、他のすべてのものが、それにならうべきなのではないだろうか。謙虚で、従順で、悔い改めた個人の心のなかに起こった真実の変化——いっさいの理屈を抜きにして、その変化を全身全霊をこめて表現しようとする無垢のこころの最初のほのかなときめきを受け入れ、考えるまえにまず、その新しい意味を生きてみようとするほどの謙虚な心。その心に真実の変化が生じれば、すべての人は昼が夜に従うように、従ってくるだろう。そうすれば、傷が仕返しの傷を生み、その傷がさらに仕返しの復讐を生むという昔ながらの悪循環の輪は断たれ、もうひとめぐりを重ねることは永久になくなるだろう。

*戦中捕虜収容所でハラ(日本軍)から虐待されたロレンスは、戦後死刑宣告を受けたハラを処刑前夜に訪問する。

由良君美 富山太桂夫 訳