本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

カヴァフィス 「カヴァフィス全詩集 第二版」

九時から


十二時半。九時からの時間の早さ。
明かりを点けてここに座ったのは九時。
本も読まず、口も開かずにずっと座っていた。
家の中は私独り。
誰に話しかけろというんだ?

 

九時に明かりを点けた時から、
若かった私の身体の影が私に憑いて、
思い出させた、過去の情熱を閉じこめた
むせかえる香の部屋部屋を。

 

いかにも大胆だったあの情熱。
影は私に返してくれた、
今は当時の面影のない巷の町々をも。
賑わったナイトクラブも今は店を閉じた。
劇場もカフェももうない。

 

若かった私の身体の影は
われらの悲しみの種子をも返した。
家族の悲傷、別離。
世に知られざる死者より成る
私の同族感覚。

 

十二時半。時間の経過のいかに疾き。
十二時半。過ぎし歳月のいかに多き。

 

中井久夫 訳